吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

だらだらかく無為日記

わりとせつなめの話が個々人とできているのとかあって、さきほど復活できたのですが、かなり精神的にはダメージ受けてますね。いろんなことに。さいきんこの復活能力が下がってきていて、元に戻りにくいという感じと過活動と停滞を繰り返すという(といいながらも原稿は書いていた)のがしんどかったりするんですが、原稿は書けるんだよなあ。ただたんになんか文章はどんなときでも書けるのかというか書くことでマシになって復活できたような気はするけど書いてるときはこれは正しいのかどうか、文章がまとまってないんじゃないかとか、そういうことは書いたあとも付いてくるけど、正解を探すことが文章の要ではないのと、今の精神状態じゃないと書けないことを書けたのでよかったなあとなぜか、不思議な解放感に満たされています。悪夢が激しいのだけど、もうここまでくると幻覚なんじゃないのかと思うくらいの極彩色のディスニー映画というかディステニー映画みたいなものがふっと浮かんで消えていく。たとえば、紙というイメージを連想したところそのイメージが自分とは関係なく何種類も浮かんで消えていき頭の中でイメージや像がいままで見たことのないかたちが、明らかに過去のフラッシュバックとかではない状態で高速でたちあらわれ続け、意味をなさないイメージの乱反射はアニメーションみたいで面白いんだけど、ひどく疲れてしまって。HDががりがり言ってるときみたいに、頭がこの状況や情景を処理しようとしてオーバーヒートするわけだけれど、処理が追いついていないので頭がぼんやりするという。その秒速でイメージがすり変わり続ける状態の過剰さっていうのは音楽でいうとスクエアプッシャーみたいだなと思って、聞き直したらぜんぜん、遅く感じた。Youtubeであさっていくともっと過剰な音楽はたくさん出てきていて、自分がいちばん聞いていた頃のよりも、過剰で過激でいまの自分の脳速度とぴったりスピードがあわさったものがあったので、何も考えずに聞きまくってみたりしていたら、擦り切れた脳の状態がいくらか落ち着きを取り戻し、体温があがっていった。5分くらいの短い睡眠を20回くらい繰り返し、そこではやっと、イメージの連続だけの無意味なものではなく、きちんとストーリーのある夢が見れるようになる。イメージにストーリー性を持たせるという自分であみ出した脱出方法はヘッドフォンでゲーム実況を聞きながら寝るという方法で、実況者のセリフから勝手にいまあるイメージに意味を見出し、ストーリーができるらしいということ。映像のネタはありあまっている状態なのでここで必要なのは語り部の存在なのである。三鷹で人と合流して飲み屋を探してさまよう中、わたしともう一人がここに土地勘があり、お店などわかっているのだけれど、他の人を疲れさせないように歩いていい感じの飲み屋に連れて行こう、チェーン店は絶対嫌だなあという論理的思考によって行動する夢をみはじめることができたわけだが、その夢はそのあと4パターンの結末を同時に進行させるという支離滅裂な過程を踏み、最後にはわたしの両足は足首から先が切断されており、でもそれは治癒に向かっているのだということを、兄に「そうだわたし足首ないんだった!」というんだけど、現実には兄などはいないので架空のイマジナリーフレンドかなにかか、願望の現れかなにかなんだろうけれど、包帯を替えてもらって、抱き起こしてもらうという一連の流れを夢の中で経験でき、確実に書いていた原稿の影響を感じさせ、一見してばらばらに思えるイメージは現実の焼き回しなんだよなあと思ってひとりごちた。最後の夢はパーティに向かっている4人と歩きつかれながら何回も何回も道に迷う夢で「また同じ場所に出た」と出る場所が防波堤で濁流が今にも氾濫しそうになっている。この裏の道をまっすぐに行けば最寄りの駅に行けるはずなのに駅につけない。携帯の電源は切れそうだったり、わたしの携帯も勝手にしらないアプリが起動しまくって肝心の地図アプリにたどり着けない。なぜか、オダギリジョーがいて、これたぶん、映画の配役のニュースをみたせいだと思うけど、オダギリジョーと話しながらさまようのはわりと嫌なことではないというかラッキーだなという気さえしはじめる。3回くらい道に迷って最後に誰かが「タクシー乗ろう」と提案したところで目が覚めた。そうだ、この人数いて誰もタクシーに乗ろうと提案しないのはなんてアホなんだろう。これでパーティの開始に間に合うだろう。まだ日も暮れてはいないのだし。あとは不条理な仕事の割り振られ方をして、新聞紙で折り鶴をたくさん折り、透明のビニール袋に入れるんだけれど、その入れ方が気に入らないと何度もなんども言われてやり直しをさせられている女か男か忘れてしまった人に対する上司の女の態度に腹が立ち、そういういいかたはない、きちんと何をどうするのが正解なのか、指示をしないから間違えるんだ。うすぼんやりとした指示ではなく、明確な指示が必要なんだよと正論を言って、まず、人に頼む前に自分でやって、正解を見せればいいのだ。相手から無限のやり直しをさせ、かたちにいったんさせることで、自分の正解をみつけようとしているだけじゃないのかなどと、言ったりしていたのでなんとなく、書いてみると整然としてくるような気持ちにもなっているのが今です。文章を書くってすばらしいですねー。

youtu.be

 

第二回『吉田アミ、か、大谷能生』

吉田アミ、か、大谷能生 2017】

どちらがさきに口火をきったのか、もうわからない。vol.2

文筆家/即興演奏家である男女が、書き言葉を舞台上で引き裂き、揺らめかせようとする試み。

www.velvetsun.jp

2017年3月1日(水)開場18:30/開演19:00〜

※ライブ終了後、トークディスカッションあり。

出演:大谷能生吉田アミ スペシャルゲスト:滝口悠生(小説家)
料金:2,500円(1ドリンク付)
場所:荻窪ベルベットサン(東京都杉並区荻窪3-47-21 サンライズビル1F)

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朗読DUO/「吉田アミ、か、大谷能生

 演奏家としてステージに立ち、また同時に、小説/批評/エッセイの書き手として文学に関わる吉田アミ大谷能生は、2010年から朗読=演奏のユニット<朗読DUO>として、多数のステージでパフォーマンスを行ってきました。
 彼女/彼は、1990年代後半から試みられてきた、音と音楽、演奏することと聴き取ること、個人とアンサンブルの関係などを厳しく問い直す、あたらしい即興演奏の実践/批評に関わるところから、それぞれの活動をはじめました。
ここではその詳細に踏み込むことをしませんが、およそ十年は続いたこの実験的ムーブメントは多くの成果を生み、そのシーンを通過したミュージシャンたちは現在、自身の資質に当時の経験を改めて反映させながら、さまざまなかたちで演奏を継続させています。
 彼女/彼は、自ら生み出し、展開させたこのようなエクストリームな即興演奏の方法と倫理を、言葉と声の分野においても実践できないだろうかと考えました。
書き言葉を舞台上で引き裂き、揺らめかせようとする試み――近代小説の前提である「黙読」というシステムで書かれた紙の上の言葉を、90年代後半から試みられてきた、ハードコアに個人主義的な日本のあたらしい即興演奏に接続することによって、まったくあたらしく響かせることは出来ないだろうか? このような無謀とも言えるアイディアから、吉田アミ大谷能生の<朗読DUO>は、はじめられました。
 吉田アミの<ハウリング・ヴォイス>は、そもそも声の言語的使用・意味の伝達をまったく排除するところから形作られたものであり、大谷の楽器であるサックスは通常発話と同時に演奏されることはありません。胸と息と喉と声帯を使用しながら、その機能を言葉を伝えることとはまったく異なった状態に育て上げてきた即興演奏者が、その回路を通して、あるいは放棄して、ひとつの言葉を同時に読む。その言葉は、男性の声と女性の声のあいだで宙に釣られ、書き言葉がもともと持っていた「語り手の不明」さを明らかに示しながら、ひとつのものが同時に複数である経験をわたしたちに示してくれるでしょう。 
 これまで清澄白河Snac、浅草橋パラボリカ・ビス、アサヒ・アートスクエア、西麻布スーパーデラックスなどで試みられてきた彼女/彼らのステージは、現代文学/音楽の極端なオルタナティヴとして高く評価されてきました。2015年に「吉田アミ、か、大谷能生」名義で発表した舞台作品、『デジタル・ディスレクシア』から一年の充電期間を経て、2017年、毎回さまざまなゲストをお呼びしながら、およそ隔月のペースで、荻窪ベルベット・サンを中心にライブを企画してゆく予定です。われわれのステージにご期待ください。

 


公式サイトです!

吉田アミ、か、大谷能生

amiyoshio.tumblr.com


告知動画です!


3/1(水) 吉田アミ、か、大谷能生【出演:大谷能生・吉田アミ・滝口悠生】

 

吉田アミ、か、大谷能生

吉田アミ(よしだ あみ)

音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、Utah KawasakiとのユニットastrotwinとSachiko.MとのユニットcosmosのCD「astrotwin+cosmos」がアルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門のグランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、小説やレビュー・論考を発表。著書に「サマースプリング」(太田出版)、小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」(講談社)がある。
 
大谷能生(おおたに よしお)
1972年生まれ。音楽(サックス・エレクトロニクス・作編曲・トラックメイキング)/批評(ジャズ史・20世紀音楽史音楽理論)。96年〜02年まで音楽批評誌「Espresso」を編集・執筆。菊地成孔との共著『憂鬱と官能を教えた学校』や、単著『貧しい音楽』『散文世界の散漫な散策 二〇世紀の批評を読む』『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』など著作多数。音楽家としてはsim、mas、JazzDommunisters、呑むズ、蓮沼執太フィルなど多くのグループやセッションに参加。ソロ・アルバム『「河岸忘日抄」より』、『舞台のための音楽2』をHEADZから、『Jazz Abstractions』をBlackSmokerからリリース。映画『乱暴と待機』の音楽および「相対性理論大谷能生」名義で主題歌を担当。チェルフィッチュ、東京デスロック、中野茂樹+フランケンズ、岩渕貞太、鈴木ユキオ、大橋可也&ダンサーズ、室伏鴻イデビアン・クルーなど、これまで50本以上の舞台作品に参加している。また、吉田アミとの「吉田アミ、か、大谷能生」では、朗読/音楽/文学の越境実験を継続的に展開中。山縣太一作・演出・振付作品『海底で履く靴には紐がない』(2015)、『ドッグマンノーライフ』(2016/第61回岸田戯曲賞最終選考候補)では主演を務める。最新作は『JazzAlternative』(2016/Blacksmoker)。

 

スペシャルゲスト

滝口悠生(たきぐち・ゆうしょう)

小説家。1982年生まれ。2011年「楽器」で新潮新人賞を受けデビュー。15年、映画「男はつらいよ」シリーズをモチーフにした『愛と人生』(講談社)で野間文芸新人賞。16年、『死んでいない者』(文藝春秋)で芥川賞。デビューから一貫して小説におけるナラティブ(語り)を重視した作品を発表。音楽や映画や落語などしばしば異ジャンルへと侵蝕しながらユーモラスな小説世界を展開する。他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(ともに新潮社)。

 

 

死んでいない者

死んでいない者

 

 

 

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス

 

 

 

寝相

寝相

 

 なお、当日は吉田アミが寄稿した『文鯨』2号最新号の販売もあります!会場に来て、ぜひお手に取ってください。(2017.2.28追記)

amiyoshida.hatenablog.com

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黒い墓石に手向ける花はまだ固い蕾の折れた桜の枝

 

 死んだ人がくたばったその場に同一規格の黒い墓石となり埋められる。モノリスに似たその墓石は幅3メートル高さ2メートルくらいで1メートルくらいが土に埋まっている。厚みは2センチの黒い大理石。D国からの移民のものがほとんどで、あとはどちらの国のものかわからないものも雑に扱われていた。死にそうになっているものは、公園に死に場を求めてやってきて、死ぬので花見シーズンを待つ、井の頭公園には黒い墓石が目立った。このことで、移民と住民の間に摩擦が生じているのはたしかで、差別が増長され、石飛礫を子どもたちが互いに投げ合うようになり、一触即発である。公園へ抜ける石階段のスチールの手すりに等間隔でまだ蕾の桜の樹の枝が括り付けてあるのも嫌がらせの一環だと思われているが、それは間違いで、強風に煽られて折れた桜がまだ咲かぬまま、廃棄され、ゴミとして処理されるのがかわいそうだ、もったいないと思った町の不良どもがひとつひとつを束ねて飾ったものだった。それは黒い墓石に直接、お供えしたいものだったが、気恥ずかしさから、どこかかけ違い、おかしくなっていた。そもそものところ、差別なんてなかった。誰かの誤解が広まったものだった。井の頭公園にはいくつもの出店が並び、甘酒がふるまわれており、子どもたちは元気に走り回っている。3月だというのにまだ真冬のような寒さの今日だったが日差しはあたたかだった。

 近くの公民館では集会が開かれていた。関西でわたしもよく知る人が死んだのだという。その人と生前交流のあった演出家がいま、関西に行ったのだと、また関係者のふたりの女性がわたしたちに報告してくれた。今日はここで公演があるのだが、公演は休演にして、これから会いに行くのだという。そうかわたしたちはここに観劇にきたのだ。客としてやってきたわたしたちは舞台に上げられ、報告する関係者を見下ろしながらその報告を聞いている。訃報のニュースはまだ公にされていない。なにがほんとうなのか嘘なのかわからないし、狐につままれたような気分だ。早々に解散。黒い墓石と開かぬ蕾のコントラストを見ながらの帰り道。駅前の路面で古本が売られていた。それはある、歌手の本なのだが80年代の絶定期に出されたコレクター本でこの世に50冊しかないと言われる私家本だった。一見、新しく状態も良いように見えたが手に取ってみると表紙からぼろぼろと崩れていった。A2サイズの大きな本だ。わたしは買うのを諦めて駅へ急ぐ。改札をとおりぬけながら、どんな墓石もどんな花も誰かを思っていることには変わりなく、墓石と墓石はあの世との中継点になっていて、そこから死んだ者にはいつでもアクセスできるのだから、墓石が同じ規格で建立されていることは死は誰にでも平等に不公平にいつか確実に訪れることを意味していて、むしろ、個性をなくして画一化することで、あの世で死んだことへの無念さを誰もが持たぬようにするための手段なのだろうと、オベリスクになったわたしはそう思うのだった。

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 という夢を見た。頭が疲れてるぅ〜!そして猫が重い。

だらだら書く日記。無為日記。

 調子に乗っていたんだ。がんばりすぎて、予定を詰め込みすぎて、TO DOをこなせる自分にもっといける、いけるというような感じになり、バーストした。このせめぎ合いと精神力で肉体的疲労を無視し、MPが突然、0になったところで、気がつくというアホみたいな状態を治したい。スケジュール管理ができないというわけなのだが、もっとひどかったときはほんとうにひどくて、何もせずにただ部屋をウロウロしているだけみたいになったりしていたのと、ものごととものごとをひとつひとつ組み立てて考えることができなくなったりしていたので、実はかなりマシになってきているともいえる。イケてた先週までの自分の多幸感とこなせてる感で3倍くらい仕事がすすんでいたし、あのままイケていたらやりたいことは9割は進めていただろう。どうもスケジュール管理とか事務的なことをやる頭とクリエイティブな頭、右脳と左脳なんだか、わからないがこれの切り替えがうまくいかない。感動したり、感情が動いた後にただ人に連絡するとかそういうことが処理できなくなってしまう。待つのにいつまで経っても慣れない。なぜこんなにも待つことが下手くそなのだろうか。こうなってから楽に浮上できる裏技を何個か獲得しないといけないんだけど、緑茶と梅干しが良い気がしてます。正直、体力がないからダメなんだけど。やっぱり、筋トレしないといけない。プロテインはすでに買ってある。無為に過ごす時間というものは大切なわけで人間、全力疾走し続けていたら息切れもしますよ。という話でよいのではないか。しかし、イベントの宣伝とかまともにやっていたら、ほんとうにすごい時間食う。そのせいで肝心のイベントに向けての準備に時間がとれなくなり悩ましい気持ちになり、自分を責めまくる無駄な時間が到来。お客さんが入らないということに関しては敏感であり、人が入らなかった時の申し訳なさとかよくわかっているつもりだ。出演者が宣伝して、内容仕切ってっていうのを一人でやっているとほんとうに挫けるので、そういうことを共有できたり、先回りしてやってくれるスタッフがいないとやっぱきっついなーというのはいま、思っているところで、そう考えると「You酔ば〜」はコンパクトにまとまっている。無料のイベントだし、自分が酒を飲みにいっているみたいなところもあって、集客を考えなくていいというのが気軽るさの秘訣なわけだけれど。

 とにかく今、自分はイベントやライブに関して、記録を撮るということ、それを動画にして、Youtubeにアップするということの必要性を感じている。アーカイブの必要性は前からも言われていたが、いまは、アーカイブにしない、ネットに残さないこと、流してしまうこと、失態や失敗も垂れ流してしまうほうに主流のように思う。大きな内輪の中で参照できないものや出来事がネットのなかで増えすぎている。内容を理解しないコピー&ペーストと熟考しない、子どもの言葉ばかりが大きな声になっている。いつからインターネットは子どものものになったのか。けっこう前なきがする。それをTwitterのせいだと言って毛嫌いするのもどうかと思うし、何が正しいのか何が間違っているのか判別がつかず、自分の気にくわないものはアンチだとかクソリプだとかで切り捨てていいみたいな脊髄反射的な反応をするのはバカだという感覚はもはや通用しないんじゃないのかとか思ったりする。そういう駄菓子みたいな考え方をたくさん見聞きしているうちに筋力が衰え体力が失われていくので、Youtubeばかり見ているとバカになる。でも、バカにならないとやりきれない現実もある。メルモのキャンディー寄こせよ。大人になったり子どもになったり、どんな年齢にもなりたい。おもーい責任とかプレッシャーとかストレスとか感じたくないんだ。好きなことだけしていたいんだ。

文句や権利を主張することばかり一人前で
依存心ばっかり育っちゃって 自分を正当化することばっかり 頭が回って…
プライドも羞恥心もない あるのは自己顕示欲ばかり…
どんな才能があるのか知らないけど 才能を活かした仕事がしたいなら
おもーい責任もリスクも 背負うことになるわよ
そんなの好きじゃないって言ったってね 丁度いい仕事?
わたしは あなたのために花屋をやってるわけじゃ ありません
あなたにとっては たかがバイトでも わたしには大マジな仕事なの
丁度いい仕事なんてない!
ふざけんなってゆーの オタンコナス

(『アマリリス岩館真理子) 

 2003年のこのブログのエントリー数は2083なのである。人の紹介とか何も考えない書き散らしっぷりとか、向こう見ずで傷つくことを恐れない無敵感がある。しかし、今はどうだ。臆病ではなく億劫になっている。怠惰になっている。というように、何かをはじめられないこと、エンジンをすぐに入れられないことで、自分を責めるのがデフォルトになっているのではないか。自信がありすぎるのも自信がなさすぎるのも極端だとダメなんだけれど。もう最高に晴れた正月みたいな空みたいな気分になって、すっきりと目覚めたい。あああああ、まじ、バイオハザード7やりたい。スカッとさわやかコーカコーラみたいな気分で合法的に人殺ししたい。人とは本来、残虐なものなんだよ。バイオハザード7の良いところはすべての恐怖を入れようとしているところ。狂ってしまうこと、愛する人が変わってしまうこと、家族という血縁の束縛から逃れられないこと、マインドコーントロールされること、生理的に気持ちの悪いもの、虫や汚物を映しているところ、画面をやや黄色味を強くして、臭気を感じさせるようにしているところなど、最低に嫌な気分にさせてくれる。あの廃屋の沼の近くの匂いを想像してうっとりする。饐えたカビの腐った血の匂い。そしてさまざまな液体の澱んだ匂い。最低と最高は同意語なので振り切れば振り切るほど気持ちがいい。ファミパンパパことジャックなんかもう、かわいいし、かっこいいとしか思えなくなっている。嫌悪感は許容量に達すると愛おしさに変わるときがある。だから一度、自分を徹底的に嫌ってみたら満足するんじゃないのかな。わたしはイーサンやミアでもゾイでもなく、ジャックになって娘をボコボコに殴りながら謝りたい。エブリンの殺せという命令を聞きながら。自分が狂って聞こえる幻聴なのか、それとも操られているのか判然としない中で、どこかスカッとした気分になっている自分を見つけて、戦慄したいのだ。きっと不安や悲しみはスカッと吹き飛び、何もかもどうでもよくなるだろう。クヨクヨしていてもはじまらない。せめて、血糖値のあがらない唯一のコカコーラが飲みたい。いや、あまり飲みたくないです。バイオハザード7がやりたいだけです。

吉田アミ作曲作品『Voises』

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『文鯨』

第2号<特集:叫びを翻訳すること> 

 

『文鯨』第2号<特集:叫びを翻訳すること>
-定価800円(+送料全国一律220円)
-2017年2月20日発刊
-H212×W140 B5変形
-頁:132p(カラー口絵 28p)
-ISBN:9784990899509 C0495

<装画>
-表紙:菅野静香
-「文鯨」題字:岩井悠

<目次>
・楠田ひかり「断片から衣服をたどってーsuzuki takayuki marriageー」【批評】
・嶌村吉祥丸「between」【作品】
・城李門「葉月あるいは明くる日のこと」【作品】
-特集:叫びを翻訳すること
・山本浩貴+h 「草のあいだから」【作品】
・柳澤田実「死のない生活」【批評】
・荻野洋一「被害者とは誰か?」【批評】
・渡部純「<さけび>が<語り>にかわるとき」【批評】
吉田アミ「Voices」【作品】
・水沢なお「墨流し」【作品】
・上田由至「プロレタリアと分裂症」【作品】
・石川初/伊藤隼平「ささやかれたランドスケープ」【批評】
・三浦翔「わたしはどこから見ている−抜け落ちた足元に目を向けよ−」【批評】
-リレーエッセイ
・丹治史彦「言のはざまを泳ぐ」

 

今回掲載された『Voices』は2016年12月10日に安野太郎の企画するイベントにて、初演されました。

amiyoshida.hatenablog.com

 

Music After Tomorrowのサイトにいろいろ載ってます。

 

◼︎『文鯨』編集長の城李門によるレビュー

ゾンビはそこにいるか

ーある喫茶店に浮かぶ、あらかじめ用意された気配を巡ってー
テキスト 城 李門

http://music-after-tomorrow.com/review.html

 

◼︎webマガジン『artscape』にも、美学・聴覚文化研究の金子智太郎によるレポート記事が掲載

artscape.jp

 

◼︎パフォーマンスの抜粋音源

soundcloud.com