吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

呪い叶い呪い叶いノロイカナイ

子供の頃の話。
炎天下の夏の日にコンクリートの上を行ったり来たりする蟻の行列を見つけて私は次々と踏み潰した。アニメの絵のついたズックの裏は黒々とした蟻の死体が張り付いている。それを不気味と思い、コンクリートの端で削ぎ落として惨殺した蟻の死体のかたまりを作り続ける病んだ遊びに興じていた。想像してみて欲しい。ツインテールのパンツ丸見え幼女が無表情で蟻を惨殺しているのを。夏の暑さのせいと言い訳できないそれはそれでなかなかホラーな光景である。そしてそれはなかなか美しいのかもしれない。勘違いでなければ。
勘違いした女児であるところの私は上下にズックを蟻の上をぺちゃんこにして上下上下上下上下運動して地団駄。上にあるときは生きていて下に下ろしたときは死んでいる。オンオフオンオフオンオフオンオフ。靴先で弄ぶ生命のスイッチ。それを黙々と作業のようにこなしていてふとした瞬間にこれは殺蟻行為であると気付く。私は命を弄んでいる。私は神である。そんなわけがない。殺せば呪いが降りかかるに違いない。蟻の呪いなどたいしたことはないだろう。しかし、足元には蟻のなんだかよくわからなくなった黒い塊があった。これだけ酷く惨殺したらどうであろう。ある一定数の蟻を殺すと呪いのスイッチが作動するかもしれない。その一定数というのはすでに神様が設定していてあと一踏みが、ちょうどその一定量を超す量なのかもしれない。もしくはもう超したかもしれない。どうだろうか。そもそも蟻には意志があるのだろうか。殺されるときギャっと叫んでいるのだろうか。人間には可聴できない小さな声で。意志を表示しなければ呪いなど発動しなさそうなもんじゃないだろうか。瞬殺だから痛みも感じないかもしれない。死んでしまってもどうも思わないかもしれない。けれど自分は蟻ではないから蟻の気持などわからない。どうとも思わないならいいが口コミであそこの家の女の子が私達をたくさん殺したのだと広まったらどうしよう。蟻のネットワークなんてどれくらいの影響力があるか知らないけれど、それでも夜になって枕もとに黒々としたこの蟻の塊がゴロゴロとやってきたらどうしよう。そう思いはじめたらどんどんとその死体に意味が出てきてどんどんと蟻の死体さえもが恐くなってきた。それまではちっとも恐いなどという感情はまるでなく、プラスチックのような距離感しかなかったのに。蟻の気持ちなどを考えはじめたら急に恐くなる。急に恐くなってごしごしと足の裏のすべての蟻を一匹残らずこそげ落として一目散で家に帰った。その夜は戦々恐々として蟻の亡霊におびえる羽目になった。夜の暗闇のそれは蟻の黒々と溶け合って一つになっているように思える。もごもごと暗闇の中で動く影は蟻の亡霊の断末魔のように思えて気味が悪くなって恐くなって布団の中にもぐりこんでもなおその闇に打ち震えなければならなくなる。そんなわけで、蟻の呪いは確かにあった。確かに効果があったはずなのだ。

それからしばらくたって小学生になって運動会の練習のときに体育座りで徒競走の順番をずーっと待っていたときにヒマをもてあました同級生らが近くの花壇からまたゾロに出てくる蟻たちを理由もなく潰しはじめた。蟻は黙って惨殺されていた。ギャという声なんか聞えない。神様も誰も慈悲などない。誰も止めない。先生も気がつかないけれど私は気が付いていた。そして、きっと蟻の呪いが降りかかるに違いないと思いそれを望んでいた。ここに呪いを望む子がいることをどんな神様だか知らないが聞き届けてくれるだろうと祈ったがそのときは何も起こらなかった。起こらなかったけど数日後の運動会は見事に雨が降って中止になったので、蟻の呪いが天に通じたなと思ったけれどその反面、私が呪いを望んだから私の望みが叶っただけなのかもしれないなとも思った。おりしもそのとき、私は蟻のシャーマンになったことを悟ったのだった。神様、罰を与えてください。罪深きおろかな人間どもに、と。そうして、私は人間すべてに嫌気が差して人間すべてを憎んでしまうような子になってしまったのです。結果、人間すべてを憎むことは自分さえもを憎むことと同じで自分を通して世界を憎んで私が世界に呪いをかけたのはもとを正せば最初に殺した蟻が発端であったように思えてならない。蟻の黒い粒粒のひとつひとつはたいした事はないけれどずっと恐ろしいじわじわ、しかし、確実に作用する陰険な呪い。鈍く重く鈍い呪い。蟻の残留思念はそこはかとなく頼りなくふわふわとして捉えどころがないのです。

それから何年か私は蟻の呪いに苦しめられた。そのときの私は大人になって酒という名の救世主(メシア)が現れるのを知る由もありませんでした。酒の浄化作用はたいしたものです。でもその話はまた別の物語。物語はこれでおしまい。続きは又今度。