吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

知らない人が花を供える

近所の犬が死んだらしかった。
らしかった、というのはその犬の姿を数日前から見なくなり、しばらくして犬小屋の中に花が供えられたので、ああ、死んでしまったのだな、と頭の片隅で思ったのだ。しかし、私は心のどこかでその現実を受け入れられなかったようで、死んだわけではなく「居なくなった」だけだと思いこんでいたようだった。死んでしまうよりは居なくなった、のほうが感情に逃げ場がある。死んだわけじゃなくてどこかに居なくなってしまっただけだと曖昧な決定に甘んじておいたのだけど、今日、その小屋の前を通ったとき異変があったのに気が付いてしまった。
犬小屋の上に何か張り紙がしてあって、何だろうと思い、自転車に乗ったまま近づいてみるとそこには「クロに花をそなえてくださった方、ありがとうございます」と書かれていた。その一文を読んだときに、ブワっと感情が、動いた。やっぱり、クロタンは死んでいたのだと瞬時に理解してしまった。

思えばクロタンは一風変わった犬だった。

犬小屋の周りを雨の日も風の日も毎日、休まずにくるくると回っていた。回っていたのだ。
トットットット、じゃらじゃらじゃら、トットットット、じゃらじゃらじゃら・・・
といった具合につながれた鎖をガレージのコンクリートに擦り合わせ、一定のリズムでステップを踏むように軽やかな足取りだった。雨の日は濡れた足でいくつもの足跡を円く残した。雨にも負けず、風にも負けず。まるで高尚な修行僧のように己を鍛えているのだと勝手に思っていた。そう思えば聡明そうな顔立ちをしているような気もする。

しかし、それは違っていた。

ある休日の日。とぼとぼと歩いていたので、戯れにクロタンの近くまで寄っていって見てみたら、クロタンの左目に光がなかった。白く濁っていて、多分、何も見えていないようだった。その証拠に私がかなり近づいたにも関わらず私のことにまったく気が付いていないようであった。クロタンは失明(?)した目のせいでくるくる回っていたちょっと気の毒な犬だったのだ。

井の頭公園にいる象の花子さんは柵の中で日がな一日、足を折ったりまっすぐにしたり折ったりまっすぐにしたり病的な動きをループしている。それは永遠に続くようだと、いつも感じてしまう。傷ついたレコードのように同じ場所でループして繰り返す。象の寿命は長いから、きっと永遠にかなり似ているのだと想像できる。

クロタンも花子さんと同じ永久ループの中にいると、どこかで私は思っていたのかもしれない。


絶対にその場所にあってしかるべきものを突然、喪失する。
もう、二度とそこにありえない。
それはどんな気分なんだろう?


クロタンと私の関係はほとんど無関係という間柄であった。
夜は洗濯物みたいに取り込まれているクロタンですが、朝は外の犬小屋につながれていて、そのクロタンを自転車に乗りながら一瞥して、ああ、クロタンは今日も回っているな、というだけの感情とまではいかない、ゆらぎみたいなものを感じるくらいの淡白なもの。私が不機嫌や不愉快や愉快や爽快でもふっと一瞬だけクロタンいるかな?と思って目を向け、見つければクロタンは今日も回っているなと意識するし、いなければ、いないな、クロタンと思うくらいの小さな感情のさざなみ。自転車を一漕ぎして、もう、一漕ぎするころにはゆらぎは平常に戻ってクロタンのことなどすぐに忘れて他所事を考え出す私だ。駅まで着いたころにはクロタンのことはすっかり忘れてしまっている。その程度のことなのだ。その程度のことがなんだか、永遠に続くような気になっていたし、このちょっとした儀式めいた挨拶ともつかぬ行為を死という結末で迎えるなんて考えもしなかったのだ。

普通や日常は永遠に続かないこともある。手ごたえもなく、ふっと消える。
砂糖が紅茶に溶けるくらいのゆらぎをもって、知らない間に消えて見えなくなることがある。
そして、それはたびたび、気がつかないうちに誰にだって起こりえる。それに気付くことがあるかないか、くらいの違いはあったとしても。

私の存在など気が付きもしなかったクロタンだったけど、クロタンは飼い主のことを好きだった。何度か飼い主がクロタンにかまっているのを見たことがある。世界には自分と飼い主しか存在しない、と思っているみたいに安心しきった顔で飼い主を盲目的に慕っている様子だった。千切れんばかりに尾っぽを振って、ニコニコとしているように、見えた。
でも、クロタンの濁った目に私は映らない。それは別にさみしいことでもない。クロタン、飼い主のことがとっても好きなんだねー良かったねーくらいに感じていた。そして、クロタンに少し感じた後ろめたさが軽減した瞬間でもあった。
クロタンは狂気の檻にいる気の毒な犬ではない。ちゃんと飼い主に好きだという感情を持っている犬なのだ、と知ったから。

犬は不思議だ。なぜ、あんなふうに根拠もなく信じきれるのだろう?

あんなふうに一方的に信じるみたいな顔でなつかれたら飼い主はきっとうれしいと思うに違いない。私は嫌だけど。そんなふうに私を純粋に信じきるものを受容できる愛は持ち合わせていない。きっと、嘘をつくだろう。意地悪をするだろう。そんな幼稚な愛情しか与えられない私は犬など飼う資格はないだろう。猫くらいの距離感が私にはちょうどいい。だから、私は犬が少し、怖いのだ。吼えるし。噛むし。感情が唐突すぎると思う。思うけれどそうやって飼い主を盲目的に懐いている犬の様子を見るのは嫌いではなかった。良かったね。好かれて。良かったね。好きで。私だって少しは優しいのだ。

さて、ここで推理。
花を供えたのは誰だったんでしょう?とプロファイルしてみる。
犯人は飼い主が知らない人である。飼い主が知らない時間にクロタンとなんらかの接触を持って、クロタンに対して少なからず「好」という感情を抱いた人である。わざわざ、その家のインターフォンを鳴らさずにそっと花を置いて立ち去るくらいの奥ゆかしさを持っている。近所の世話焼きおばさんならきっと世間話の一つでもしたくなったり、花を手向けた自分の存在をアピールしたくなると思う。

花は小さかった。
高価なものではない。クロタンらしいといえばクロタンらしい。店で買った花ではない、野に咲く花だ。

まあ、誰だっていい。誰かが、クロタンを好きでそっと花を供えた、その事実だけ知っていれば私はじゅうぶんなのだ。どこかにクロタンのことに気を止めていた人がいたということを知って私の気持は少し軽くなる。花を手向けることは悪いことであるはずはない。

私は明日もその道を自転車で通り過ぎるだろう。それは永遠に続かないことかもしれない。知っている。それでもやっぱり、クロタンの居た場所を通るとき、私は永遠を信じるためにクロタンの亡霊を幻視するようになるのではないか。花が枯れてしまって、今日見た張り紙のことをすっかり忘れたとき、朝の儀式は復活すると思う。耳の中に残っている。クロタンの鎖の音。いつまでも残っている。その残響は永遠かもしれない。永遠だと信じたいだけなのかも知れない。わからないけど。わからないで曖昧にしているのも悪くはないな、と思う。