吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

訃報:岡田史子

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20050409k0000m060120000c.html
岡田史子といえばちょうど私が高2の頃にNTT出版から選集が2冊出てよく知りもしない癖に即購入。いいタイミングに読めて良かったマンガの一つである。好きになるというのはタイミングなんだよ。
くらもちふさこしか読まない同級生に岡田史子を貸して感想を求めると「何だか知らないけど気になる」と言って多分、一生興味を持たないだろうと思っていたのに素直な感想がかえってきて驚いたのもよく覚えている。私は岡田史子を理解した風なふりをしていたが、本当は良く知りもしなかったのである。何故か何度も読み返したがそれは理解できなかったからであって理解できないけれども何か魅力があるということをきっぱりと言い当てられて少なからずショックを受けた。

理解できないけど気になるということに私は無自覚だったのだろう。理解できるものがいいなんて思っていたんだろうか。もしくは理解しなければそれを好きだと思えないということだったのだろうか。理解して好きになるなんてことはどんどんなくなっていく。好きということにはどうも理由はないということに気づくのはもっと先だ。理由をつけないと好きだとは思えないというのは弱さや未熟さかも知れない。どうりで世界が生きにくいわけであったか。岡田史子のことを想うとなんだかそういった自分の世界の未熟さのことを思い出す。たいして世界を知らないのにそこで世界が終わっていると思いこんでいて絶望しているような気になる。閉塞した世界はきれいで潔癖であって美しいけれど世界は不確定要素で何もかも思い通りになるわけがないけということが怖かったのだろうなあ、と。
岡田史子の感性に一番近い時に読めたのは運が良かった。タイミングって大切だ。タイミングは大切だ。と2回書きたくなるくらい大切だ。

とはいえ、好きの理由を考えることは大切だけど。好きを手に入れてから好きを分析するのは楽しい。好きの強度も増しますから。

そういえば呉智英岡田史子にやけに否定的であったけど、呉智英の評論をいろいろ読むとどうして岡田史子に違和感を覚えるのかよくわかったので私は呉智英は一本筋の通った評論家としてかなり好きなのだ。

しかし、その岡田史子のマンガだが、一冊誰かに貸していて今、手元にないのだ!誰に貸していたんだろう。返してもらわなければ。そうやって鳩山郁子のサイン本もなくなってしまった。なんで、私は好きな漫画をすぐ人に貸すんだろう。もう、多分、自分が好きなものを誰かに紹介したくてしょうがない病だと思われる。こんなにオモシロイのに知らない人がいるなんてもったいないとか思っておせっかいに貸してそれで感想を求めるということはなんだかずっとしているような気がする。船を建てるもなくしたしな。ぐうう。

まあ、こういう気持になるってことが思春期ということなんでしょうねぇ。しみじみ。思春期って素晴らしいですね。過ぎ去ったあとで妙に懐かしくなるので今の私はさしずめ大人病でしょうか。そんな病は訊いたことはありません。

ご冥福を祈ります。どうもありがとうございました。