吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ファミコン鎮魂歌

※今読むとツッコミどころ満載。間違いも多そう。違ってたら指摘してください・・・。あと、誰か「ああファミコン現象」という本を持ってたら売ってください。すっげーオモシロイんだよこれ。

ファミコンの歴史を紐解こう!
 ファミコンとはいわずもがな家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の略称である。
 そんなファミコンに私たち76年生まれの子供が出会ったのが83年、時に小学校2年生である。
 当時のゲーム機は高額な値段に加え、業務用ゲームと同じソフトでもあっても内容は似ても似つかずでプレイするだけならゲームセンターの方がマシという風に感じられていた。ファミコンはその弱点を見事に克服して安価でクオリティが高く落胆に至らぬ程度の性能を保ち、業務用ゲーム*1の移植を成功させた。 
 驚きを持って迎えられたファミコンだが、発売当初から任天堂独走!というわけではなかった。任天堂からのゲーム数本しか発売されておらず、後の栄華を築く際に大事な礎となったサード・パーティーの参入までもうしばらく待たねばならない。ファミコンの伏兵としてファミコン発売とほぼ同時にセガSG-1000』、マイクロソフトアスキーの共同開発『MSX』の 統一規格の発売が予備ユーザーの心を揺らしていたのだ。
 しかし、MSXは「大企業が作ったんだからこれからも残るだろう。それにこれならパソコンまがいのこともできるし…」と漠然と思わせる力こそあったが、その中途半端さとファミコンよりも高価だったため「ファミコンでゲームさえできればいいや」と買え控えられたのだった(ファミコンより4ヶ月遅れての発売というの痛かった…)。ちなみにどれくら高かったかというと、10万円を切る高性能パソコンという触れ込みで発売当初は8万もしたのだ。やはり世間では高い!という意見が大半だったのだろう。すぐに各社競合の結果、半額まで価格は押さえられた(なんだかサターンの発売当初のようなドタバタですね)。それでもファミコンよりも3万も高いのだからファミコンがどれだけ安かったかわかるというものだ。後年はエロゲーの巣窟となり悲しく衰退していった。
 孤高のゲームメーカー・セガは多くのソフトメーカーが任天堂に歩み寄る中、最後まで自社開発のハードにこだわった勇気ある会社だ。性能こそファミコンに迫るものの一歩及ばずで魅力的なソフトが数多いという点で最終的にはファミコンに軍配が上がり、セガは辛酸を舐めることとなるのだが。
 ファミコンの将来性に目を付けいち早くサード・パーティーに名乗りを上げたのがハドソンだ。最初に送り出した「ナッツ&ミルク」「ロードランナー」をヒットさせ、高橋名人というトリックスターを生み出した事でもつとに有名な会社だ。ハドソンファミコン以降の次世代機すべてに大量にソフトを供給しており、その身のこなしの軽さには脱帽する限りである。ハドソンに続きのナムココナミタイトーバンダイ*2がそれに習うかたちとなる。

●マリオ以降
 ファミコンブームを最高峰までに押し上げたマリオ以降、ソフト数も一挙に増え猫も杓子もサード・パーティーに参入するようになる。
 しかし、発売されるゲームは次第にマンネリ化しいった。マリオの顔を別のものにすげ替え、二番煎じを狙ったものばかりの状況を打破してくれるであろうと期待の中、発売されたのが国内初の本格RPGドラゴンクエスト」(エニックス社)であった。
 このドラクエ、注目すべきはゲームキャラデザインに鳥山明を迎えている事だ。鳥山明は当時、驚異的な部数を伸ばしていたマンガ雑誌「少年ジャンプ」の専属マンガ家である。ジャンプの子供への影響力は大きく、ジャンプの話をしない小学生はほとんどいないという程、みんながみんなジャンプだった。マガジンやサンデーがそれまでに勝ち取った読者を離すまいとしてどんどん購買年齢層を上げ、大人向けになる一方であったのに対し、ジャンプのターゲットはいつまでも子供たち中心であったからだ。
 ドラクエは大ヒットしゲームを超えてマンガ、アニメ*3へと発展していくのだがその足がかりを作り得たのはジャンプというバックアップがあったからこそといえよう。これは特異なケースでマンガのキャラを使ったゲームはそれまでにもあったのだが、ゲームが出発点となって他メディアに移植されるケースは少ない。蛇足だが、それ以降のジャンプの路線は雑誌の基本コンセプト「努力、友情、勝利」とマッチして、RPGを連想する展開(経験値を積み強くなっていくヒーローの話)のマンガに人気が集まる傾向があったようだ。 まったく異なるメディアだったマンガとゲームは結実し、内容の薄いキャラゲーが増えた。この背景にはガキにはまんが絵をくっつければとりあえず売れるとあざ笑う商魂たくましい大人の考えが見え隠れする。  
 ファミコン市場も大幅に拡大し、ハードの普及率も高まるとソフトメーカーのほとんどが質よりも量と考え、ソフトの開発を短期間・低予算で済ませ量産に拍車をかけた。それら場当たり的な質の悪いソフトは、俗に「クソゲー」と言われるようになる。おかげでゲームバランスを事欠いたソフトを購入した者はソフトを以後ソフトを買い控えるようになり自分の首を絞める結果に。
 粗悪品に頭を痛めた任天堂は次世代機の開発に着手しはじめる。そして鳴り物入りで登場したのが「ディスクシステム」だ。

ディスクシステムに至るまで
 昭和61年2月21日。任天堂ディスクシステムを発表した。ファミコン本体に値段は1万5千円でちょうどファミコンをもう一台買うような感じ。ディスクではソフトの媒体がカセット式からディスクに切り替える事によっていろんな限界を一気に解消しようという目論見である。ディスクシステムというハードはファミコンの時のような驚きを持って迎え入れられたわけではない。
 もうカセット式は消えていくのではないだろうかという危機感がもたげてきたがディスクシステムに便乗しなかったナムコドラクエ以外のソフトをまったく発売しなかったエニックスなど一部例外もあった。

 さて、このディスクシステムの利点とはなにか、探ってみよう。
 まず、第一にディスクの記憶容量112キロバイトをフルに使えば、情報量がカセットの約3倍に増大する。よって画像が改善されよりリアルに美しくと望むユーザーの期待に応えた。また、オリジナルの音源チップを搭載した事により音色が豊かになった。
 第二に ゲームデータを保存しておける。データのバックアップによりゲームの続きをプレイするのが便利になった。これはRPGアドベンチャーゲームには欠かせないデータを保存するたびに行う「パスワード入力」のわずらわしさからの解放を意味する。だが、利点ばかりではない。ディスクシステムで遊んだことのある方なら誰でも知っていることだが、やたらめったらディスクアクセスするため、待ち時間が長かった。ひとつが改善されてもこれでは合理性の名のもとに切り捨てられたパスワードによる裏技をはじめとするいくつかの遠回りな儀式を捨させられたのは割に合わない。しかも、後にこのデータバックアップは使われるROMカートリッジの大幅な改善により記憶容量が増え、カセット式でも当たり前になってしまい存在価値がなくなる運命にある。
 第三にソフトの供給が安価ですむという事。カセット式はハイリスクであるが為に、よっぽどそのソフトが売れなければ利益が上がらないのだ。カセット式では4000円以上した価格がローコストで済むディスクでは2500円と押さえることが可能になった。価格破壊という点で特筆すべきは「ディスクライター」*4の存在である。
 全国のデパートやおもちゃ屋に設置されたディスクライターは何度も遊んで飽きてしまったゲームをたった500円で新しいゲームに書き換える事ができた。人気によってメニューをどんどん入れ替えるから、儲からないゲームは容赦なく捨てら

ファミコンネットワーク化構想!?
 いろんなメリット・デメリットを抱えながらも任天堂ディスクシステムに固執するのはファミコンを超える次の展開として「ファミリーコンピュータネットワーク化構想」という途方もない計画を用意していたからだ。ファミコン本体を開発する際に先を見越して拡張できるように、データを外部に出し入れするためのコネクターや音声入力出力用の端子などを装備してあった。ここに光線銃の接続やファミリーオリンピックで使ったマットみたいなやつを付けて遊んだりできたわけだ。任天堂は最終的にここにキーボードやマウスを接続し、モデムを搭載してネットワーク化の構想を練っていたという。パソコンなみのネットワークを組むことにより、ディスクライターを設置することなく新しいデータに更新出来ることはもちろん、電話回線で繋がった遠く離れた相手と対戦ができる。また、大人にとってもネットワークを強化することによってもたらされる福音は大きいと見込んでいた。パソコン同様に情報ツールとしての役割を果たし、子供には教育機関と提携したコンピュータ教育の一端として取り入れようというものだ。 任天堂はカートリッジ(カセット)を捨て、ディスクが秘めた可能性に社運をかけたのだった。
 だが、このネットワーク化はご存知の通り実現されなかった。パソコン会社の圧力があったという説、開発が思うように進まなかったという説など諸説入り混じっているが、単にディスクシステム本体が売れなかったという事実に尽きるのではないだろうか。任天堂の山内会長は当時「ディスクシステムが200万台突破を機にネットワーク化は現実的なものとなるでしょう」と語っているが、どうも予想以上に伸び悩んだようだ。
 もう一つはディスクライターの失敗である。ディスクライター導入により、流通コストなどのリスクが解消されたというが、当のディスクライターの数がまだまだ少なく、大型店までわざわざ出向かなくてはいけないし、そもそも自販機でジュースを買うようにワンコインで書き換えられるというウリも結局はゲーム自体の価値を下げてしまい裏目に出た。『ツインファミコン』というファミコンディスクシステムの一体化したハードがシャープ(!)から発売されるとますます状況は更に混乱をきたした。
  なんだかサターンを捨てドリームキャストに賭けるセガに似てなくもない任天堂ディスクシステムへの路線変更だが、セガには任天堂の二の舞にならぬよう健闘を祈るばかりだ。

 ネットワーク化の計画があったように任天堂は来るべきパソコン時代の幕開けを予見していたように思われる。これは私の私見だが、もしかすると任天堂は最終的にはパソコンを作りたかったんじゃないだろうか?そんなわけねーだろうと一刀両断するのはちょっと待って。確かに「ゲーム機としても使えるパソコン」は純粋な「ゲーム専用機」であるファミコンに惨敗していた。が、彼らはいずれゲームに飽き、ゲームを作りたい・ゲームの裏を知りたいと思うようになり、ファミコンを離れてパソコンに向かうようになるのではないか、と任天堂は危機感を抱いていたのではないだろうか(今でこそ「ゲーム機はゲームができればそれでいい」と思えるのだが…)。その時、ゲームしかできないハードに勝ち目はあるのだろうか、と。
 それを体現するかのように、度々ファミコンはパソコンに歩み寄ろうと試みている。MSXに近いかたちを目指した(つもり?)、「ファミリーベーシック」は簡単なプログラミングができるようにと開発され、大変な在庫となって代理店に大きくのしかかった「ロボットシリーズ」なんてものも、簡単にベーシックを学べるものとして売り出されていた。けれども当時のこどもにとっては何かを作り出すよりも作られたものをいかに遊び倒すかということの方がおもしろかったし、いくら簡単になったとはいえ、すべての子供全員が根気よくそれを理解しようと思ったかというと、否と答えるしかないだろう。

●『スタディボックス』親の打算
 今回、ファミコンについて調べていて非常に興味深かったのはこの『スタディボックス』だ。これは進研ゼミなどでお馴染みの福武書房(現・ベネッセ)が開発した教材である。
 さて、問題のスタディボックスだがこれには親の打算「子供の大好きなファミコンなら勉強も遊びながら楽しくやれて頭が良くなる」信仰を強く感じる。初期ファミコンのラインナップにあった親を納得させるためのソフト*5と考え方は近い。
 通信教育の一環として導入され為、店頭販売はされずハードはレンタルで、既に購入されているファミコンに接続する。本体のレンタル料(\15000)とカセットテープ、テキスト代を合わせると年間で約5万かかる計算になる。記憶媒体のカセットテープはA面にプログラムをB面に先生の声が録音されていて音声と映像を同時に送り出せる仕組み。英語あそびやさんすうあそび同様にこういった打算を働かせた教育機器(パソコンでいいじゃん)はそのいやらしさからか定着することはなかった。
…友達が持っていたのを見ただとかいう話は収集できたが実際に持っていたという人の話はまだ確認していないのでもしスタディボックスで楽しく勉強した経験のある方がいらっしゃったらちょっと私に耳打ちして欲しい。

ファミコンばいばい
 ディスクシステムが廃れていった80年後半にはファミコンに続く次世代機がしのぎを削ってはいたがポストファミコンに成り代わる事はなくただ細分化していっただけだった。任天堂はその後もテトリスのブームやゲームボーイの発売という明るい話題もあったし、スーパーファミコンは飛ぶ鳥落とすよな勢いではなかったけど、そこそこ健闘している。が、本当の任天堂の起死回生には現在のポケモンブームを待たなくてはならないのであった…。

 様々の展開の余地を残しながらもファミコンは闇へと消えていった。その理由をある人はクソゲーのせいだと言い、ある人はハードの限界だと説く。私にとってファミコンとの決別は子供時代の終わりを意味している。色気づいてきて次第に興味の範疇がゲーム外に向かっていった。ソフトよりもレコードや洋服やライブのチケットやら欲しいモノはたくさんあった。それらのモノに埋もれていっていつのまにやら忘れてしまっていたファミコンを10年振りにやったとき、その荒いドット絵、原色使いのどぎついカラーすべてがあまりにちゃっちく感じた。私があんなに熱中して、その画質がきれいだ、細かい、リアルだと当時、大変驚嘆したゲームまでもが悲しいくらいにちゃっちいのだ。これはまるで病気をして退院した親がとっても小さく、老いて見えたようなもんだ。が、同時にそのちゃっちいゲームに熱中した事がありありと思い出され、頭では忘れ去った裏ワザを自分の体は覚えていたり、未だにふと口ずさんでしまうメロディーが実はゲームの音楽だったりと気づかせることは多い。

 骨までしゃぶったファミコンを卒業した我々の世代はいかんせん今のリアルなゲームにはついて行くことはできず、少々持て余しているといったところだろうか。

【参考文献】
大技林/ああファミコン現象/技術者が語るファミコンブームが崩壊する日/ファミコン・シンドローム/超発想集団ナムコ/少年ジャンプの時代/モンド・コンピュータ/80年代大全/超クソゲー

*1:最初に発売された業務用ゲームからの移植は「ドンキーコング」「ドンキーコングジュニア」「マリオブラザーズ」など。

*2:ナムコハッカーを題材にした映画「ウォーゲーム」でハッカーの少年がゲームセンターで遊んでいた「ギャラガ」「パックマン」を開発した会社。「遊びをクリエイトする」というスローガンは当時の若者にアピールするにはじゅうぶんな宣伝効果が得らたようだ。代表作は「ギャラクシアン」「パックマン」そして文化人までもを巻き込んでフィーバーしまっくった「ゼビウス」など。【コナミMSXの供給にも力を入れていた。代表作は「ツインビー」「グーニーズ」など。【タイトー】「スペースインベーダー」でインベーダー・フィーバーを巻き起こし、全国にゲームセンターのシェアを拡げた。代表作は「ちゃっくんぽっぷ」「エレベーターアクション」やクソゲーの歴史に残る大作「たけしの挑戦状」便乗モノの「アキラ」(笑)くらいだ。【バンダイ】 おもちゃメーカー。ガンダムのプラモデルの発売元でもお馴染み。「キン肉マンマッスルタッグマッチ」「オバQワンワンパニック」などのキャラゲーを多く出している。

*3:アニメ版ドラクエだがジャンプの目論見は外れパッとしなかった。なぜなら単につまらなかったということもあるが、ドラマツラギーを追求したゆえに世界観がゲームのそれとは異なり、ゲームファンからひんしゅくを買ったせいだ。その点、話題のポケモンはゲームに忠実に作ったことで両者抱え込むことに成功している。

*4:任天堂では未だにディスクの書き換えサービスを行っているそうだ。追記>2003年9月30日修了。ƒtƒ@ƒ~ƒŠ[ƒRƒ“ƒsƒ [ƒ^@ƒfƒBƒXƒNƒVƒXƒeƒ€‘‚«Š·‚¦‚Ì‚²ˆÄ“à

*5:「ポパイの英語遊び」「ドンキーコングJr.のさんすうあそび」(クソゲーだろ、これ全部)などの事。とりあえず勉強もできてためになるからとこれらと一緒にハードさえ買ってもらえればしめたもの。後でソフトを手に入れることは容易い。また、親が抱き合わせで買ってきて無言で勉強しろというプレッシャーをかけるケースもあったようだ。