吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

Subcultureがサブカルチャーになりそしてサブカルになる

http://d.hatena.ne.jp/Tigerlily/20050812#p1

Undergroundがアンダーグラウンドになりそしてアングラになる
Alternativeがオルタナティヴになりそしてオルタナになる
Progressiveがプログレッシヴになりそしてプログレになる
そしてそして、おたくがオタクになりOTAKUになる
そこでこぼれ落ちるものは、新たに獲得されるものは何なのか!
それは個人の視点、個人の来歴からはじめるしかない類の話ですよね、という態度から集められた談話の数々。

執筆者の一人の野中モモさんの一文を読んでも膝をポン!と打って感想に変える。

最近よく考えるのは受け手が感受性を磨く。誤読せずに作品を読み解く能力という点は努力しないと得られない。ということ。誤読したり間違ったことを書くことは恥ずかしい。恥ずかしいという気持ちが希薄になっているような?何かを発したり発言したり誰かに何かを伝えるということで誰かは傷つくかもしれないがそれでもやってしまう覚悟があるのだろうか?などと考える。
自分本位で書かれた文章がむかつくことが多い。
どうして自分のわからないことがあるのなら人に話を訊かないのだろうか?
どうして調べないのだろうか。
自分の知っている範囲で何かをあてはめて、勝手に納得して見ようともしない関わろうともしない姿勢では生きていても楽しくないような気がする
自分の無知や感受性のなさを宣伝してしまうことが目的なのかな。
自分の価値観がうち破られる感動とか感覚とかをあえて裏切られるのとかオモシロイのになあ。

どれだけ時間をかけて対象を愛せるのか。それくらい時間をかけることを厭わない何かに私たちは出会っているのだろうか。出会っていけるのだろうか。出会うためには見つけなければ。知っていかなくては人生はひどく、つまらなすぎる。
消費するよりももっと楽しいことはある。