吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

仁義なき戦い――オタクvsサブカル

http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050808

この特集を読みながら「あれがない」「これがない」「これはオタクではない」「これはサブカルだ」「つまんなくね?」などと不満をこぼしてみたり、小金の使い方をめぐる自意識の件でせめぎあっている暇があったら、「自分が良いと判断できるものが消えていかないよう」に尽力することが先決なンである。

おおー!こうやってちゃんと読んでくる人がいると思うときっとみんなやる気が出るに違いない。愛だ。対象に愛がある。愛がないとこういう文章は書けませんね。久しぶりにいい気分。うれしいー。

特に自分の関わったインタビューなどに関してはわりとばるぼらさんと話したりメールのやりとりをしていてこうしたい&こういうのが多分、必要、私は読みたい〜みたいな考えであれを編集してもらって、けっこういろいろと決めていけたのは自分なりに収穫であった。ばるぼらさんの仕事ぶりの異様さと異能さには度肝を抜かれる。非常に丁寧に細かにケアしてくれたので感激した。全仕事などあれだけ調べるのには実はかなり時間がかかっている!当たり前だが。ほとんど、チラシしか残ってなかったりするからね。それを全部、打ち直していたわけですよ、ばるぼら先生は!ばるぼら…怖ろしい子!!

ちゃんと見ていてくれている、ちゃんと対象に愛がある、愛がなければ興味がないくせに愛しているなんて気さくに大嫌いだなんて気軽に言うものじゃない。愛はもっと貴い。きみはどれだけ対象に愛を注いできた&注げることができるのか?愛せなければ愛されない。

その点、八雲さんも引用されている岸野さんのインタビューの…

作者の意図と、こちら側〔受け手――八雲註〕の聴き取るものが、フィフティ・フィフティでいたいんだよね。こっちが上回っちゃ駄目だよ。それは現在のネットでのレビューにもつながっていて、それこそタグ打ちやエクセル作表くらいの技術力で成立する批評というか感想って、ほとんどが自らのスタンスを表明する為のものであって、批評によって作品を対象化しようというわけではないように見受けられる。わざわざ、つまらなかった、といった感想を書いてアップするというのは、その作品をダシにして、自分の立場を表明したいというだけでしょう。--岸野雄一

はすごく共感する。
見知らぬ誰かの自らのスタンスを表明する為の何かの感想や批判の対象に自分があったとしてもそこに私がいる理由が見つからない。必要がない。ただ、利用されただけだと思ってさみしくなって孤独を感じる。誰だって良かったのだ。まあ、それでもその誰かが、私を見下して気分が良くなれたならいいけれど、そんなことを増長させても誰もハッピーにはなれなさそうだ。どうすればいいんだろう。どうすればいいんだろうか。それは私が考えることではなさそうだけど、知らない誰かも一緒にハッピーになっていたいとは願う。不幸よりはずっといい。ずっといいに決まってる。

時間的な問題などでもっと詰めていきたかった!などという後悔はありますが、まあ、ケースとしては同世代を生きた人、そして近い文化圏にいた人、そしてその時代を夢想して憧れるキッズたちに届けばうれしい。私が宝島のバックナンバーを買い漁っていた中学時代みたいに。今の時代がつまらなくてもきっと自分にあった時代はどこかにあるはずだと探していたあのころのこととかね!
実は一件、ユリイカの編集長・郡さんから転送してもらったメールがめちゃめちゃうれしかったんだけどそれは秘密だ。教えてあげない。私だけの宝にする。

もともとは(書いちゃうゾ!)ばるぼらさんが吉田アミ版「東京ガールズブラボー」みたいなのがやりたいという発端で提案された企画だったので最初、私は「私なんか出してもつまんないですよ、もっと取り上げる人いるだろう」とやや、断ったんだけど「どこにでもある、すでにある、自分以外の誰かがやりそうな何かに興味がない」と言う、ばるぼら先生の言葉があったので承諾した。実際、うちにはけっこういろいろなものが意味もなくとってあったのと日記を書いていたことが功を奏して、サンプルを集めるにはもってこいであったとも言える。
まあ、日本でアルスエレクトロニカでゴールデンニカとってはてなダイアリーユリイカQJの花見でばるぼらさんに会って音楽やってるような人間は世界広しといえども私くらいしか居ないので偶然だが必然という気もしている。そういう風に思いたい。思いこもうと思う。思いこんだ方がなんだかハッピーだ。この世は偶然と言う名の必然でできている。存在に理由はないのかも知れないけど存在に理由があったという証は欲しい。そんなようなことをぼんやりと考える。ぼんやりと考えたい。

それから最後に

もし同誌に触発されたら(たとえそれが不満や違和感だったとしても)、掲載された執筆者たちの文章の横に、自分のオタク/サブカル経験を並べてみるつもりで文章を書いてみていただきたいということだ(第三者にも読める場所に掲載していただければなおうれしい)。というのも読めばわかるように本誌は、オタクやサブカルを規定してみせるというよりは、(書籍の上では)あまり正面きって論じられることのないオタク/サブカルという組み合わせに光を当てなおし、それと同時に個々の読者の語りを誘発するために編まれた一冊だと思うのだ。そうした回想録がたくさん出揃ったら、本誌の続編として『オタクVSサブカル! 死闘篇』や『オタクVSサブカル! 頂上決戦』をつくると(『代理戦争』ではなくて)、そういうことでいかがでしょうか。

この提案は大賛成。責任編集長はあの人とあの人を任命したい。雑誌が出る前に分熊やサイトなどで書かれていらっしゃったご両人に。あはは。きっと、オタクにもサブカルにも一家言お持ちであろう。きみの言葉が訊きたいんだ。ほんとうの声が訊きたかったんだ。それがどんなに悲惨であろうとも。必要なのは血が流せる覚悟だけ。素晴らしいことじゃないか。そうだろう?