吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

その文章は誰に向けて書かれたものなのか

 たびたび、私の文章を読んだ方に「これは私に向けられた言葉なのでしょうか?」などと訊かれることがある。これは正直、しめた!と思う、ウレシイ反応である。なぜなら自分の問題として受け取られたということはそれだけ自分の文章が汎用性が高い証だからだ。多くの人に共感してもらえる文章に、と心がけているので誰かに何かが届いて響いたのなら私はそれがとてもウレシイ。
 もちろん、誰か特定の人に向けて文章を書く場合は、トラックバックやリンクを貼り、誰に当てたか表明するようにしている。コメント欄などは特定の人へ向けて書くが、パブリックになっている場面での文章はなるべく誰にでも思い当たるといいなと思っている。
 しかし、誰にでも思い当たる文面というのは曖昧でつまらない。そういうどうでもいいことを書くという動機は極めて薄い。私が書く動機になるのは、今はたまたまユリイカの(また!)原稿を書いて何度も直したりなんだかんだとやっているため、それにまつわる話が多い。というわけで、だいたいにおいて、書きたいと思うきっかけは現在の関心事に終始するのだけど。でも、唯一、誰かに当てているといえば、それは自分でしかない。だから、私は誰にも嘘をつかなくても良くなるのでとても気持ちが楽になる。楽に文章を書く事ができる。

 そう、私が誰かを想定するときそこにいるのは過去の自分。あのときモヤモヤとして鬱屈としていた日々に私は誰にも救われなかったがなんとなく理由のない希望を持ったのだ。今になって思うのだけど、こうして未来の自分が過去の自分へと大丈夫!大丈夫!オッケーなんていうふうに励ますと、連綿と続く記憶の中で過去の自分は癒されるのではないかという妄想があるからだ。まあ、もちろんそんな事実はないのだし、過去が未来に変わるなんてことはないけれど、でも、過去の記憶を自分に都合のいいように修正していく。それはそんなに悪いことではないと思う。

 過去を癒すことはできないなんて諦めた八方塞りな救いのない物語より、いつでも修正可能で過去をも癒していこうとする、その物語を私は好ましく思うのだ。他人には変えられないけれど、自分には過去を癒す(事実は消せないがその印象を少しだけ救いのあるものに変える)力はある、としてみる。
 そう、思うと、ほんとうにどうしようもない過去、現実を見つめてきた私たちにも一縷の望みが。どうせなら、絶望を希望に変えたい。私はそう提案したい。悪くはない提案だと思うけど、どうでしょうか。