吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

なぜだかわからないが、どうしてもそうしてしまうこと。

 楽ではないことを人は何故してしまうのだろうか? 答えは簡単だ。その問題に関して少なからず自分にも思い当たる節があるからだ。それは抗うことのできない興味と好奇による衝動なので、私はそれを止められず、案外と傷ついたりするのですが、別にそれでいいと思う。ただ、もしかすると、進んで敵に認定されることを性急に選んだのではないかと思うと、ひるがえってその自分自身さえも見放したような気になってしまって嫌悪してしまう。できる範囲は決まっていて、必要以上、がんばって誰かのために犠牲になれるほど、強くはない。ましてや、強くなどなりたいわけではない。

 私はぐちゃぐちゃと複雑に絡み合った人間関係のことを考え、なぜ、自分はそうしてしまうのだろうと自らを問いつめた時に出てくる答えは一つきりで「悪くなるよりは良くなる方がずっといい」だ。これを優等生的意見であるなどと切り捨てることは簡単であるが、優等生的意見であったとしても自らを守るためであったとしてもなんだってどうだってしないよりはしたほうが好ましいと思える行為をわざわざ止める理由はなんだろう。それは他人のためかも知れない。自分のためかも知れない。もっと他のためかも知れないが、でも、何かが良くなると思ってしてしまう愚かかも知れない行為を止める理由は臆病だからじゃないの? と、自ら勇気を奮い立たせる。
 ネットに足りないのは愛じゃなくってこの勇気だと思う時、自らがバカになって示さなければ誰がそうしてくれるのだろう。と私は思う。誰だってバカになんてされたくない、見下されたくなんかない、見放されたくなんてないと感じるだろう。私は別に見下されようが見放されようがくだらない人格攻撃や直せない部分の指摘をされても一向に構わない。もちろん、そうされたら心が傷つかないわけではない。怒り、憤りを感じ、悲しくなり、他人に絶望することさえあるが、そこでも突き詰めると「相手がそうして気分が良かったなら良かった」に行き着いてしまう。これは何の病なのか。これはどんな闇から生まれた思想なのか。
 
 ソクーロフの映画で「私は周りの人間が死ぬ姿を見たくないから誰よりも先に死にたい(意訳)」と結ばれ終わる。私は最初、これを観たときに「なんて自分勝手な考えだろう」と憤りを感じた。私は誰よりも長生きして誰かの不幸を見つめ続ける強さを手に入れたい。なんて思い上がりも甚だしいことを思ったのだ。少し経って、また、いろいろなことを経験したとき、私はこの弱さを軽視して見放してしまうことに自分の傲慢さを感じとった。弱い人。自ら選んで弱い人。そんな他者に情けをかける必要はない。自業自得だ。いい気味だと嘲笑していた自分に気が付く。気が付く。

 他人をバカにするのはなんて気持ちが良いのだろう。
 自分より下を見つけることはなんて気持ちが良いのだろう。
 あいつよりはマシだ、あいつよりは自分はずっとマシだなんて自分を励ましながら生きることを私は悪いことだとは思わない。それが相手に直接的にダメージを与えなければいい、である。バードウォッチをしてるあなたはウォッチ対象に自分の存在を気づかれたらウォッチャーとして失格である。相手に、影響を与える覚悟がないのなら、与えるかも知れない場所で与える行為をすることは慎むべきだ。そうしないと相手の本心なんか引き出せない。自然な姿なんか見れない。望むべきことではなかったはず。いつのまにか、自分自身がウォッチの対象になってしまっていることに早く気が付くべきなのかも知れない。

 私は僕はこうしてしまうことで、何を得たいのだろう。

 時々、こうして自らに問いかけてみることを私は悪いことだとは思えない。突き詰めて見つめて見て欲しい。そこにあるのは優しさなのか憎しみなのか。他者への愛なのか自己愛なのか。とどのつまりその2択しかないのではないだろうか。
 そして、突き詰めればその二つにどちらにも愛があることに気が付く。私はその愛があることを好ましく思う。愛について誰かを傷つける。愛で誰かが傷つく。けれどそこにあるのは誰かが誰かを好きだったからという動機だ。私はそれなら、とため息をつく。それなら、と、私は呟くし、それならと、頷いて、美しいな。美しいと、眩しく思う。いくらそれまでに、相手を憎もうが突き詰めればいつだってそうだ。ただ、誰も不幸になるところを見たくない。それが自己愛からくるものだとしても、結果的に好ましいのなら自分を愛して他人を愛する。その行為さえも否定していてはきっと、誰の顔もまともに見ることはできないだろう。それはきっと悲しすぎるし、それはきっとつまらない。つまらないことはしたくない。ただそれだけだ。生まれた人生を進んでエンジョイしたい。それの何処が悪いのか。考えても考えてもわからない。答えは、しないよりはしたほうが、ずっと、ずっといいだ。

 好奇心だけがそうさせる。好奇心だけを信じたい。好きという掛け値なしの気持ちに賭けたい。それで散財したって笑ってられるから。それってそんなに悪いことなんですか?