吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

トールモー・ハウゲン

http://www.jarchive.org/*1


涙が流れる。とめようがない。涙はかん高い、せつないしゃくり声といつしょに、ただあふれてくる。道のはしにすわりこみ、思いきり、わあわあなけたら、どんなにいいだろう。細い道に入ってしばらくいくと、砂利道にでた。さらにあるくと、森の小屋に着く。この世にひとりぼっち。だれもあたしをすいてくれない。みんな意地悪だ。死んでしまいたい。

たびたび、ここの日記でも紹介しているんだけど、あんまりネットに情報ないのと昔の本が復刊してなくって読めないトールモー・ハウゲンの本の引用がばるぼらんのところであったので驚いた。オタVSサブの時に少し話してはいたのだけど、独自の学習能力ですごい勢いで調べまくっているのだろうか。相変わらず驚愕だ。それとも単なる偶然かも知れないので今度会ったときにでも訊いてみよう。

で、せっかくなのでトールモー・ハウゲンに思いを馳せるのだが、たびたびこうやって思い出してネットで検索するとはじめはまったくヒットしなかったのに毎回、新しいネタが上がってきているので微妙にうれしい。

トールモー・ハウゲンとの出会いは小学校の中学年頃の話。私は近所の図書館まで月に2回は通っていて、そこで見つけた。不思議の国のアリステニエルの挿絵やマザー・グースの歌に洗礼された私は、それらと似た挿絵の本を見つけたら片っ端から借りていくというのが自分の中で爆発的に流行していた時期である。エッチングとかのかさかさとした筆致が好きで似たような作画として当時、積極的に読んでいたのはミヒャエル・エンデの「モモ」「ネバーエンディングストーリー」やわたりむつこの「月魔法」、竹下文子「星占い師のいた街」、角野栄子魔女の宅急便」、えーとあとなんだっけ、まあ、なんかいろいろ児童文学といわれる子供向けのファンタジー小説の暗めの部分を好んで読んでいた。だいたいにおいて、後ろ暗いコンプレックスをもった気まずい主人公が決して明るくない現実をうじうじと…みたいなどうしようもない閉塞感や不快感のあとに訪れるさすが、児童文学書!子どもを絶望させるだけじゃないね!っていう話。今なら「ハリー・ポッター」にハマる女児心理に近いのかも知れない。
おとぎ話や童話が好きだったので、妖精がらみの民話やそれこそ水木しげるの妖怪辞典を好むホラーとファンタジーに現実逃避の手段を学んでいた最中だったのだろう…。アリスとマザーグースは私の原体験と言ってもいいくらいの影響のされっぷりなので、その手の薄暗い感じのものに惹かれる宿命だったと言っても過言ではないだろう。

で、トールモー・ハウゲンである。はじめて借りたのは「魔法のことばツェッペリン」である。
http://www.bk1.co.jp/product/345485/review/5125

ここで訳をした木村 由利子さんのレビューが猛烈にウケた。私の中で勝手に想像した木村由利子さんのイメージから逸脱しまくっていて楽しい。

私は顔で人を判断します。どんな秀作映画だって、美形が出てなきゃ「いや。お金がもったいない」し、著者近影が暗いハンサムだと、誰もが認める駄作であっても許します。

というわけで、さわやかハンサムなトールモー・ハウゲンに会わなくってもいいもん! と強がる木村さんなのですが、ひょんなことでハウゲンに会ったら…

しぶしぶ控え室に向かい、挨拶に振り返った彼と顔を合わせたとたん、言葉が出なくなりました。繊細ではかなげで、風が吹いたら飛びそうで(みんな誉め言葉)、黒のタートルネックコーデュロイのパンツが似合うその姿は、少女マンガに児童書作家を描かせたらまさにこうだろうという風情。うあー、うあー、うあー、子供の本を書く人にも美形がいるんだあ、「Papa told me」の知世ちゃんのパパみた〜い。握手をしながら作品とは関係なく(おいおい)、「一生ついていきますっ」と心に誓ったのでした。

そんな理想の王子様的ルックスのだとは!!!と今、ここのレビューを読んで驚愕する私の気持ちを伝えたい。子供の頃の私も「トールモー・ハウゲンってなんか、永遠って感じっぽくって素敵…。童話とかに出てくる王子様みたいな人だろうなあ…ポワワワワーン」となっていたくらいの乙女チックぶりが全開だった頃なので、大人になった私は今、ちょっとその頃の自分に「良かったね。あんたの妄想、わりかしいい線行ってるみたいよ?」と声でもかけてくるわ。

まあ、顔で作品を書くわけでもないだろう話なので大人になるとそんなことはどうでもよくなるものだが(むしろ意外性を好む)、女児は時としてポワワワワワーンと夢見がちなものである。夢を見続けさせてあげよう…。

そんなわけで、木村さん曰くの「ロマンチック美形が書くにふさわしい、幻妙な雰囲気をたたえた物語」であるこの作品に、暗い!陰鬱!と子供ながらにその憂鬱さを楽しみ魅了される私はこのボーイミーツガールにやられたわけである。少女マンガのパターンとしてもお馴染みの「疎外されている孤独だと思っている世界に自分しかいないような気がする誰にも自分の魅力を発見されていない少女が、少年に会って自分を再発見する」物語であるとカンタンに説明したくなるが、物語はシンプルだが散りばめられた言葉が独特である。どうにもこうにも胸の奥がチリチリと痛み、存在不安の発作にでも駆り立てられ、のどがひゅうっと唸り声を上げる感じがするのだ。似た気持ちになる作品として、一連のソクーロフの映画を私は連想するのだけど、ああいう陰鬱さや絶望のことを私は嫌いではない。どうしようもない絶望があるから希望の光は明るく美しいのだし。

次に「消えた一日」を読む。タイトルからしてヤバイ雰囲気がぷんぷんする。表紙は「魔法のことばツェッペリン」と対になっていて、ああきっとこの男の子はあの女の子と会ったんだその話の続きだろう。と思ったが実際は違っていた。ある朝、目が覚めたら透明人間になってしまった男の子の話である。彼をこの世界から救う存在としてピーター・パンがあらわれるのだけど、ヴィレムはピーター・パンと一緒に幻想の世界へ旅立つのか、それとも消え理由を見事探り出し、もとの自分に戻るのかしら? という話である。

その後、私は「夜の鳥」「少年ヨアキム」を読んだ。しかし、連作2作はキツかった。両親の不和で子どもの精神状態が危うくなっていく話だが、一作目の夜の鳥では救いがほとんどないように思えたし、夜の鳥など不安をあらわす象徴が不気味で理由のない怖さがあった。他人事とも言えない部分もあり、そうとうページ飛ばした本である。
しかし、どうしても私はこの作家のことが気になって仕方がなかったらしく、続きの「少年ヨアキム」も読む。ヨアキムになると少しだけ状況は緩和され、親は何でもできる神様じゃなくって時には間違える弱い存在である、という話。これは「バナナブレッドのプディング」の衣良ちゃんの心理にも似ている。親は全能であると思うから、頼り、甘える。責任を取らない弱い子供で居られる。そのままで居られる。

そこで、図書館にあったトールモー・ハウゲンの本は全部読んでしまった。私は何年もこの作家のことを忘れていたのだけど、あるとき、よく通っていた図書館で唐突に名前を思い出し、手にとったのだ。知らない本が一冊あった。私が読まなくなって、忘れていた間に出版されたものだった。
それが「夏にはきっと」であった。

夏にはきっとで冒頭に主人公の少女が聴くレコードが「メラニー」であった。私はメラニーのことを何も知らなかったが、多分、ブリジットフォンテーヌやパティ・ウォータースみたいな感じだろうと想像していたが、その後、あっさり、近所のレコード屋でメラニーを見つけた。おもったよりも曲は明るかったが女の声は重くくぐもっていたせいで、私のイメージはさして塗り変わったわけではなかった。

(続く)

*1:追記:早速、消された!