吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

身の程を知ればいいのに

 デリカシーのないやつが嫌いだ。自分のことは棚に上げて他人にデリカシーを持てだのいうのもどうかと思うが、要は無神経で厚顔無恥なやつのことである。憎んでいると言っても良い。

 例えば、ズラーと並んだレジの前でスプーンフォーク並びをしないで横入りするやつをみると絶望的な気持ちになる。些細なことだが、わかっているのにやっているあの顔を見ると憎らしくなる。夕飯時前など空腹のイライラも相俟って、憎々しさも倍増だ。しかし、ここで同じ愚行に出てしまえば元の木阿弥。自分だけは人に迷惑をかけないように慎ましやかに生活しよう…だって、社会の落伍者だもの…などと自らを自戒するが、それでもやはり他人に「自分さえ良ければいいわよいいわよ」なんて顔をされると「あーこの世に宇宙人が数%紛れ込んでいるっていうNASAの発表は本当だわ」と打ちひしがれるのであった。そもそも、そんな発表はないのだが。

 この行動パターンのイラつきの原因というのは自分だけが特別に何かに許されてるという勘違いやもう二度と会わないであろう他人に対する恥の欠如である。旅の恥はかき捨てよりは立つ鳥そのあと濁さずだろ。それが美徳。というよりもアレです、結局こういった無配慮よりも大した手間でないマナーは守った方が美しく結果的に平和なのです。考えてもご覧なさい。すべての人間が窓の外が見たいからと土足で電車の窓にかぶりついていたとしたら…ガクガクぶるぶる! キモチワルイ上にみっともない。その上、ちょっと気の毒になってくるでしょう。

 暗黙の了解。ルール。マナー。行儀。なんてのは意味のない形骸化したものであれば、正味の話、破ればいいのにくだらない、であるが、意味があるそうしたほうが多くの人がハッピーになれるものというのは歴然とある。歴然とあるのだからもう少し身の程を知れと思う。

 一番、ムカつくのは一人では小心者なくせに寄らば文殊の知恵とでもああ、まるで良いことのように当然だなんて顔をして、味方を常に引き連れながら虎になって対峙されるとき、こっちの正当性は誰が証明してくれるのだろうか…とみじめな気持ちになるときだ。圧倒的数の正義! ポコポコ猫パンチしてくるコピペ兵の攻撃も数が増えれば打ち身捻挫にアイタタと徒労する。こっちは歴戦錬磨で闘ってンのよ。顔も何もかも晒してさあ。ええ、バカみたいというならそう言えばよい。きっとそうやって誰かの承諾を得ながら猿真似しながら生きればいいじゃないか。誰かのせいにしていく人生の不毛は知っている。ああ、知っているさと、みじめになった自分にエールを送るのであった。送るしかないだろう。神様、わかる人にはわかりますよねッ!閻魔様に申し開きができるように生きてます!ア・タ・シ☆キャハ!!!…ふう、疲れた。どっと疲れる文体であった。一瞬、自分に殺意が芽生えたがそんなアタシも甘受してやろう。大人なんだから。

 と、いうわけで、多くのみなさんと同じように私も所詮、矮小な人の子。いやいや矮小なのは自分だけか。いえいえ、短小なんて言って思ってもいませんよそれは妄想ですって、今日の牡牛座のあなたは脱線してしまいがちね。ラッキーアイテムはマルキドサドです。肌身離さず持ち歩くのが吉。

 話を戻して。デリカシーのないおたんちんに出会ってしまったのは事故のようなものであって、諦めるしかないと思う。もし、その相手と今後も付き合う気があるのであれば、敢えて苦言を呈する覚悟もできるもの。しかし、その相手と今後も会う予定もなく、むしろ進んで出会いたくないと思うとおりすがりの通り魔のようなものであれば無視を決め込むのが得策。くわばらくわばらと魔が過ぎるのを待つのがいい。そして、自分よりも武闘派の正義感に正義の鉄拳を喰らわされればいいのにと祈ろう。

 それでは腹の虫が収まらぬ。時を待つだけでは気が晴れないとお悩みの私のような方はプログのネタにでもして、こうして長文をしたためると若干、落ち着くものである。というか、ほんとうに書いていたらどうでも良くなった。これぞはてな脳。忘却したければ、書け!である。


追記>フォーク並びだよ…。スプーンなら一カ所だっちゅうの。
[快適な行列] 1列ならうまくいく