吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ホリエモンに恋文を

 というわけで、ホリエモン逮捕騒動記念で今までホリエモンに関して言及してきたエントリーを集めてみた。

■[人]ホリエモンは現代のトリックスターであり、「既成秩序の破壊」がその役割である。 http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20050224/1109236493
影響力のある人は自分の行動によって間接的に何かを殺していく。間接的に何かを殺してしまったらその分、生まないとそこに「呪」が発生する

テレビの報道を見ているとこの嫉妬からくる「ホレみたことか!」「だから出る杭は打たれるんだよ!」「自業自得」「私と同じ不幸でいればいい」「あいつだけズルい」「金金金金言ってるからだ」「この我利我利亡者め!」というよーな怨嗟を感じるのでガクブルだ。いつから人は他人の不幸を喜ぶのが美徳になったのか。いや、それみっともないからやめたまえ。なんていうまっとうな至極まっとうな感覚が逆に今はナウくないのか。まったく嫌な世の中ですな。楽しい世の中にしていきたいですね!どうせ、生きるなら。

集団ヒステリーめいた過剰反応もどうかと思う。ホリエモンが儲けたことであなたはいくら不幸になったんだろうか。まあ、多分、その他大勢なだけで誰も不幸になっていない人、部外者ほど舌なめずりしながら他人の不幸をせせら笑うのが楽しいのだろう。趣味がいいか悪いかと言えば、悪いに決まってるが、それが好きな人もいるらしいのでしょうがないだろう。それをどうこうするわけにもいかないのだが、まあ、趣味が悪いですねというくらい表明しておくくらいはしておいてもいいだろう。キモチワルイ。

で、なんでもそうだけど、それで、その後どうするの?っていう事後処理の方が大切なわけで、失敗してもいくらでもやり直しはできるはずだ。与える影響力が強いのだから責任を持てというのは当然だけど、起きてしまってからあれこれ非難したところであまり建設的ではない。じゃあ、先に指摘してやれよとも言う。
もちろん、原因を探るのは必要であるが。今後、同じ過ちをおかさないためにも。ただ、その過ちということに関して報道でよく訊くセリフは「法を侵した」という絶対正義な断言ばかりが先行していて、何がどうだったのか、どうしてそんなことになったのか、エラーが起こりやすいシステムだったのではないか?とかそういう今後に繋がる指摘がないのでたぶん、みんなイラつくんだろうと思う。というか、私がイラついた。

この手の感情論にたぶらかされて怨讐に囚われている時間は無駄でしかない。当事者が感情的になるのはわからなくもないがその手の感情論をわざわざカメラ向けて報道する理由はミスリードをよぶばかり。解決には程遠い。そうやって何度も何度も過ちを犯すほど、どうしようもなく人間は弱くて卑怯なんだろう。弱くて卑怯なくせに他人の失敗に非寛容なのも人間だもの。くだものだもの。か。まったくいみじくも汚い。他人を非難できるほどあなたは聖人君子なのでしょうか、と。

■[ネット]ホリえもんは、新聞・テレビを殺しますのか
http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20050214/1108363908
世界はほんとうはもっと色鮮やかで豊かだし、残酷で不気味なんですよ?

想像していたことはわりと容易く起きるんだなあ。本当に、世界は色鮮やかで豊かだし、残酷で不気味すぎると背筋が凍りつくばかりだ。だから、世界は色鮮やかでいられるわけだし、豊かだと思うわけだけど。

誰だってわかりやすく相手を理解したい。誰だって苦労してまで相手を知りたくない。
お手軽に知った気になりたい。知った気になって賢いふりして自分だけは得していたい。人間だもの。
だけど、お手軽に知った気になって賢いフリをして自分だけ得するなんて無理である。短絡的に自分だけ得した気になることは容易だが、実際、自分だけが得するなんてことはなかなか難しい。というか困難すぎる。

みんなで幸せになりましょう。

と、何度も繰り返すが他人の幸福を羨み、足を引っ張る行為を意識的にしないようにしていくのが実はもっとも幸福へ近づく手段だと思う。相手の笑顔を相手の幸福を自分の幸福のように感じる訓練が必要だ。現代人には他人の幸福を共有する訓練が足りない。自分だけ幸せだとかならず、不幸が追ってくる。光があれば影がある。自然の摂理だ。そして、聖人君子で神様みたいな人間なんて私は気味が悪いし、そんな人がいるのなら他人なんていらないし、その神様と私はなんの接点も持てなそうだ。だとしたら私はここにいる必要もないと存在意義さえ揺さぶられる。意味があるから存在するとは思わないので、もちろんそんな完璧な存在などはないと思う。相互理解の話をするが、歩み寄れるから人間は尊いのだし、オモシロイ。わからない、理解できない部分があるから思考する余地があって人生は豊かだ。

何故、自分と同じ不幸をと同調を強要してしまうのだろうか。
同じ不幸など誰にもあって欲しくないと考えるのがまっとうな精神じゃないのか。

出来た事実を人質に一生、呪いが発動し続けるよ、と魔法をかけるのは止めないか。
取り返しのつかない、失敗や事故、経験、心的外傷などがあっても、傷つけた当事者から癒されることのは稀である。経験上、ほとんどないと言ってもいい。当事者に加害者意識があればまだ、救いはあるかも知れないけれど、人が何処で傷つくのかわからないと同様に当事者もいつ誰を傷つけたかなんて意識していない場合が多いのだ。では、一度、傷ついた人は一生、不幸なのか?という問いには私は無条件にそれはないと言い続ける。経験上、そんなことはない。世界樹の葉で癒すかヒールの魔法で癒すのかの違いであって、またそれが自分自身で癒すのか他人に魔法をかけてもらうのか方法やどんなふうだっていいのだ。どんなことで癒されたっていいのだ。それがドブに捨てられていたビックリマンカードだって、癒されたという事実は紛れもない真実。出所が妖しくったって、あなたにとって、その価値は変わらないのだ。また、そう思っていたほうが、得である。癒される可能性が増すのだから。だから感受性は日々磨いておいたほうが想定外の事にも臨機応変に対処できる。

世界は矛盾だらけである。

まったく変わりようのない「」の中で代入されるXとyみたいに揺ぎない一生変わらない不変のモノなんてあるのかな?すべて金で数値化されればいいのだけど。どうもそんなにカンタンには世の中できていないのだった。

だらだらと書いてみたが、実際に、何がその人にとって幸せかなんて当人にしかわからない。かわいそうなのはホリエモン?それとも私?それとも…。(エデルさん風)

結局最後に笑うのはホリエモンかもしれない。そうだとしても笑って許せる心の広さがあったほうが精神衛生上気楽ですぞ。自分と違う価値観のある他人がいるから世界は多様でオモシロイんです。

■参考エントリー
http://www.mieko.jp/blog/2006/01/post_5772.html
かなり考え方が似てますよ、未映子さんと共感。文化系女子連合の結束をそこはかとなく感じるのであった。でも、こういうまっとうなことをまっとうに正論を正論として書く勇気はあったほうがキモチイイし潔いし読んでいてすがすがしいので好きです。って書くと、こっちに恋文みたいだな。