吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

世界はあなたのためにはない

 花森安治の「一銭五厘の旗」に収録されているエッセイの一つ。これは「暮らしの手帖」の編集に在籍していた林澄子さんの死を偲んで書かれたものだ。昨晩、思い立ってここのサイトのレイアウトを変更し、文字を読みやすくするよう工夫した。前のレイアウトだとどうしても、字が間延びしてしまって読みづらかったのだ。読みづらいせいで更新する気もどんどん失せ生命力が枯渇してくるような気がしてきたので、このエッセイの一文から、引用させてもらった。何故か。

 この追悼文を私はとても好きだからだ。

 死者への悲しみがあり、慈しみがあり、感謝があり、そして、彼女は死んでしまったけどその志は受け継ぐかも知れない「この春、学校を卒業する若い女のひとのために」へ宛てられる。彼女の生き方や仕事への取り組み方についてどうだったのかを丁寧に書き綴りながら、ラクに生きようとする若者……ここでは結婚を永久就職として人生を軽んじる考えに疑問を投げかける。昭和43年の原稿なので今読むと時代錯誤でズレを感じるところもあるが成る程なぁとうなづくところも多い。ラクに生きるということは責任を負わないということ。ラクに生きるということはクサリにつながれ家畜になること。さて、あなたは無責任な家畜として生きるのか、つらくとも、人間らしく生きるのか、えらぶ道は二つに一つしかないのである。こんな風に問い掛けてくる。

 こういう強い言葉を読むとハッとさせられる。ギョッとさせられる。

 生きるべきか死ぬべきか。それとも生きながら死ぬべきか。何も考えない感じないというのは死んでいるのと同じことだ。何も考えずにただ、誰にも干渉せずに無責任に生きていればラクだが、それは人でなし。人でなくとも幸福なら良いのだろうか? 反芻してみて答えは見つかるだろうか。あなたはどちらを選ぶのだろうか。

 ラクに生きると自分の生に対して無頓着になる。横柄になって図々しくなる。浅ましくなる。知らないうちに他人を傷つけることが増える気がする。無駄な嫉妬を受けやすくなるような気がする。そして、自分に自信がいつまでも持てない。当然だ。何の苦労もしていないのだから、無根拠にこれだと言い切れる強さが、逞しさが備わるわけがないのだ。いつも誰かに選択されていていつも誰かの顔色を伺っていなければならない。なんて七面倒くさいのだろう。考えただけでウンザリする。憂鬱になる。

 そう考えると自分で選択したほうが、ずっと後悔は少ないような気がする。ラクでなくとも、自分が自分に納得できるのはそういった生き方だと思う。結局、ラクな生き方で満足できないのだ。ラクだと不安になるから。どうしてもこれを選んでしまう、そしてそれには意味がない。あるのは美学だけでいい。

 世界はあなたのためにはない。

 はじめ、突き放されたと思った言葉が違う意味に見えてこないだろうか?