吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

消費されない消費の仕方 

 腰痛腹痛痛痛。昨日整体に行って来て一時的に治ったのだけど、やっぱりぶりかえしてきた!整体のセンセイも「これはけっこうキチャッテルので海外行く前にもう一度、いらっしゃったら」とおっしゃるほどである。右半身腰から下が痛いのであるが、コレ、左の腰がイカれてるせい。要は左の腰がねじれていて、そんで右に痛みがガクっと来ているのだった。しかし、おかげさまで上半身は超快調である。ちょう快調ではあるが腸は快調ではない。朝、起き抜けにグレープフルーツジュースをがぶ飲みしたせいだろうか。あっちこっちが調子悪い。ふふふ。でも、重くくすんだ鈍いくぐもったものは一掃された。快晴だ。なんというか魑魅魍魎的な想いの重い念をちぎっては投げ捨ててしまうのがマジカル整体パワー。詰まった血液や体液が流れ出す。循環しない水は腐る。腐った身体に美しい精神は宿らない。なんとなく鬱々としがちな人は整体に行って正しい姿勢に戻してもらうとわりかし効果覿面なのでオススメする。精神に重みがある時はたいてい、身体にガタが来てる時だ。少しでも健康になれば瑣末な悩みは消滅するものです。少なくとも自分はそうだなあ。なんとなく眠くて仕方ないというのが疲れてる時なんだけど今、覚醒してますもの。酢の物
 どんよりとした気分も晴れる日はある。毎日どんよりしていても唐突に晴れる。いつまでも続く絶望なんていう居心地の良い場所はない。明けない夜はない。開けない幕はない。晴れない空はない。止まない雨はない。病まない体はない。そういうふうに思想と行動は共にあれ。

 ワタクチはStartseite — Deutschに行ってちょっくらライブをしてくる&マスタリングをしてくるわけですが海外に行くと逃げ場がないのでいつも深く考えをまとめるいい機会になる。新しい本を読みはじめる。ぐるぐるしていた思考を捕まえる。英語の勉強をあわててする。夜中にホテルでワインを空けながら缶詰の小説家気取りで日々の出来事を書き留める。誰に頼まれたわけでもなく。そういうふうなことをする。2003年くらいから半年に一回くらいの割合で海外でライブをやっているのですが、そんなことはニポンではあまり知られない。知らなくてもいいんだけど海外に行くたびに不思議なもんだなあとも思う。ものすごく熱望されて熱烈に歓迎されている自分。こうやって世界中に自分の音楽を好きで好きでたまらない人がいるという事実。うちの父親がいいこと言ったと名言リストに入れている「一人でも聴きに来てくれる客がいるならいつまでもやり続けろ」というのを反芻してみたりする。それはなかなかカッコイイ。さすが自称ちょい悪である。ハードボイルド気取りである。78パーセントくらいダメオヤジであるが22パーセントくらい良いところがある。もうちょっとあるか?ユリイカを送らなくては…。

 人を嫌いになるのは相手のことを知らなすぎるからだ。良いところがまるでない人間なんていない。良いところが一つでもあれば好きになれる。

 ぐちゃぐちゃとかき混ぜて構成された自分がどれだけいいかげんで意味不明でいかさまだらけなのかということを知らしめる。一体、自分という思考はどこで生まれたのか。摂取してきたものがめちゃくちゃであればあるほどオモシロく、むしろ、それが小気味好い。できるだけ、どこかに属する何とかさんみたいなわかりやすいカテゴライズにおさまらないようにジャンルの垣根をようようと乗り越えて想像以上のことに出合いたいものだ。そのためにはどこかにいてもいつもどこかで恥じ入る気持ち、こうしていることに安穏としない、ぬるま湯につかって楽しない、居心地の悪さを感じていたいものだ。楽することを憎む。むしろ、苦を愛するくらいじゃないとオモシロイことには積極的に出合えないのであった。薄いよりも濃いものが好きなので仕方ない。きれいにカッティングされた宝石よりも原石。カルピスも原液で飲みたいくらいだ。それはきついのでテキーラにしてもらう。何杯でも飲み干せる。

 コーヒーのフィルターのように。
 断片化した想いをドリップしてはじめて血となり肉となりはじめて、識ることができる。人間の考えなんて一杯のコーヒーのようなものだよ。どんな豆がいいのか、調べて知って試して炒って要らない割れた豆は捨てて挽いて淹れて飲むんだ。その繰り返し。なんていうようなことを熟練のコーヒー屋のマスターに言わせたいものだ。

 自分の黄金時代を邂逅するだけの人生はつまらない。過去を振り返るばかりがいいとも思わない。安心したいわけではない。前衛家とはわけのわからないものをオモシロがる生き物だ。一度来たダンジョンに何度も迷い込みたくない。誰の足跡もついてない新雪に足跡をつけたい。mixiであしあとをつけるのはその後だ。過去を対象化するために、再認識する。すると当時はわからなかった点と点が線になって一つのかたちができあがる。するとはじめてそれはコーヒーだったのか紅茶だったのかバリウムだったのかがわかるというものだ。それから飲み干せばいい。それがなんであるのかが理解できる。理解できたらしめたものだ。理解できない状態で飲んでも血や肉にはならないだろう。安心する味。なじみの味。知っている味。だったらクリープでも入れて味の変化をつけたい。フミヤなみに大量投入して、それがコーヒーなのかクリープなのかわけがわからなくしてしまえばいいのに

 そう考えると、人の思考はコーヒーというよりは、うんちのようなものだという方がしっくりくるような気がしてきた。消化して出されたもの。おいおい、きみの黄金はそれか。とんだ糞食趣味。オーノー。人間は永久機関で純化するのか。ループする管人間だ。一生かかって最高のうんちをするのが我々、人間の使命です。