吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

私怨トリーはやめれ

 また、しょうもない単語を思いついたので書き留めておく。その名も「私怨トリー」。私怨とは、「個人的な恨み」を指す言葉なのは日本人ならご存じだと思われますがこの私怨の気持ちがあるということを明記しないで書かれる文章の多いこと。とはいえ、読んでいる第三者は「なんでこの人はこの相手に対してネガティブすぎる評価なんだろう…」と首を傾げ、「そうか…この人、相手を恨んでるんだ!」と知らなくてもわかるほど如実に伝わってくる。そういう私怨トリーとはおうおうにして誰も幸せにしない*1ので心の奥の誰にもつながっていないブログに書き貯めていて欲しいものだが恥知らずな誰かは今日もしこしこと誰もが見れる場所で私怨トリーを書き留める。

 私は最近、この私怨トリーに関しては徹底的に無視したほうがいいのではないか?コストの面をみてもあまりにも省みるものが少なすぎる。何かを得ようとしてインターネットをやっているわけではないが、私はインターネットが万能だとも思っていない。できることとできないこと、向いていることと向いていないことがあるというのはだいぶ、わかってきた。特にコミュニケーション、友達を作るとか恋人を作るといったことが目的ならば、いつまでもブログ上でクネクネしていても何もはじまらない。
 オフ会なりなんなり開いてさっさと気になる文章を書く、同じ価値観っぽい人とは出会ってしまえばいい。チャンスはいくらでもある。あとは勇気だけだ。
 いつのまにかすれ違っていって出会うチャンスをみすみす逃し、私怨トリーを綴るようになるのは生産的ではない。むしろ、私怨トリーを綴ることでさらなる私怨トリーを呼びさらに私怨トリーが広まり世の中、負の私怨トリーだらけで息苦しくなる。要約するとそうなる可能性がある事象に関して、どこかで誰かが諦めたり許したりしない限り、負の連鎖反応は過剰になって広まっていく。木の葉の朝露、落ちる一つの私怨トリーが静かな湖畔の水面に波紋を描く。

 終了の鐘は誰が鳴らすのか?
 私怨トリーを書く人はしんどそうだ。見ているほうがしんどくなる。自らも血まみれになりながら相手をタコ殴りにするけれど、それもまた、単なるシャドウボクシング。気が付けばその殴っている相手とは自分自身を写した水面だったりするので、始末が悪い。相手に自分の嫌な部分を勝手に見出し、そこを嫌い、殺すのは自分自身だ。小さな自殺を繰り返す。生まれてはこない。何もそこにはない。非生産的、殺戮。そしてそれは自分ではない相手であると死体を一瞥する。傷つかない。それは自分ではなく、他者である。そう思ってその場を立ち去る。

 これでは一生、成長しないだろう。いつまでたっても同じことの繰り返しの毎日。ループする日常。殺戮の通常営業。

 死体は反乱していく。死体を見ている。殺す瞬間、相手に言葉のナイフが突き刺さるのを面白そうに見ている人、気分が悪くなって逃げ出す人、もっとやれ!と野次を飛ばす人、いろいろだ。コロシアムには観客がいっぱい。観客を魅了したいスペアのきく似非の戦士が次の出場を待っている。

 義憤にかられ相手にちょっと意見してやりたくなる。おまえより賢い俺様がオマエの愚かさを糾弾してやろう。相手をこてんぱにのしてやろう。なんて気持ちがあるならそれはきみ、相手を殺すほど憎んでいると、つまるところ要約されてしまう心理だ。相互理解と歩み寄りというヘイワ的解決を望むなら、ナイフは捨てて手を差し出すべきなのだ。

 敵意を剥き出しにすれば相手だって敵だと思って身構える。
 悪意を持って接すれば相手だって悪意を持つ。

 じゃあ、その逆のことをしてみたら?

 あー大好き大好き世界が大好きー世界中を愛してるーこういう世界にはきっといい人しかいないーウフフーなんて愚直さでもって世界に対峙すると、今までナイフかと思っていた言葉がなんと薔薇になるのだ。

 ああ、この人は私を愛しているからこんなふうに私をかまうのね。好きなら好きだといえばいいのにお馬鹿さん。そういうあなたを私は許してあげる。

 許してあげる。

 これが多分、最強の呪文。与えられるより与えている方がずっといい。
 ビンボくさくないからな。

*1:書いている当人だけが一時、優越感に浸って気持ち良くなれるけど、長い目で見るとあんまり気持ちのいいものではない