吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

帰ってきましたよジャポンに。

 またもや荷物が届かないなどのトラブルがあり若干、疲労しておりますが病気も発症せず、ひじょうに健康的な毎日をすごしておりました。写真なども追ってアップし、感想など書きたいところですがなにせ忙殺されている身。そして、ジェットラグ。今、夜中に無理やり起きてる感じでふわふわしてます。睡眠の質が低下しているので寝ても寝ても眠く、寝るときは暴力的な睡眠欲で昏睡します。
 アーストワイルフェスに関しては座間裕子さんのはてなの日記で雰囲気が伝わるかと。

 http://d.hatena.ne.jp/yukoz/20060929

 からー3日分。私の二の腕がたまらない人にはたまらない感じで写っているのが気になりますが気にしないように。

 私がやっている音楽というのは海外に行くとアカデミックの権化のような位置でひじょうにありがたがられるわけですが今回のフェスは特にオタクフェス(さっちゃん命名)というだけあって、好きで好きでたまんなあああああああい!!!というお客さんが多かったです。日本では考えられないような熱狂的なファンが「おまえのアルバム全部持ってる!好きです!好きです!」とか、日本語をね、一生懸命覚えてさ「あなたの音楽とてもとても好きです。」とか言ってくれるわけですよ。もう、ありがたいことこの上ない好待遇でうっかりすると、自分スゲーんじゃないのかと錯覚しそうになるたびに、俺はこんなもんじゃないと思い直すバランスが必要です。こんなもんで慢心している場合ではないのです。それは客に失礼にあたるから。

 このあいだの薔薇薔薇トークイベントでもありましたが、芸術は高尚だからありがたいんじゃないということは何度も確認したい。私のような音楽を一つの正解として盲信的に受容されているんじゃないのか?と感じるとちょっと、ちげーよと思うので、そうやってありがたがる人がバカにするようなしょうもないこともバンバンやっていくのが前衛家たる覚悟です。おまえの高尚さを約束するためにこっちは身を削ってるんじゃねーげんなりとなるのは、わりと無理ない感情。上とか下とか下品とか上品とかいうんじゃなくってそういうふうに区別ないし、差別していくことがどれだけ世界を狭めるか。私は無菌室で咲くような薔薇なんてガラじゃない。けれど、そうやって咲く気高さも知っている。私はそれを愛でたいけど、自分はもうちょっとゲリラ的にわざわざ誤作動起こして混乱させてく、感覚から感覚へリンクしていく方が似合ってるってだけだ。安定、安心、なんて要らない。それよりも、少しでも先の未来が見てみたい。できることだけ選ぶんじゃなくって、常に挑戦していきたいのだ。

 どうせなら血まみれになって泥だらけになっていく茨の道を選びたいものだ。心境としては「反省はありますが後悔はしていません(最近の僕の信条は「過ぎたことは全ていいこと」です笑)。」」とhttp://www.faderbyheadz.com/a-Site/a-news.cgi?date=2006.10.06で佐々木さんが書いてるのに共感。

 予定調和やぬるま湯を憎むし、居心地が好い場所に留まることは本位ではないのだ。アーストワイルのフェスは紹介/確認という点で優れていたと思うけれど、その先への回答はあったのかなあと疑問に思うなら、それは多分、私とクリストフの演奏にそれがあったのかもね。観た人には私が後半、30秒間、無音でつきとおした意味を考えてもらいたい。私はその場に留まりたくない。それだけだ。できすぎた美しい世界なんて壊れてしまえばいい。というのは大友克洋的センスである。壊すためには世界を作らなくっちゃね。どうせ作るならとびきり美しい世界をね。そして残酷に壊すのだ。

 また、逆に商品への接し方は知っているが作品(ここでは広義の意味で芸術的なものとしますが)への接し方がわからない人に既知ではなく未知のものへと出合うのがなんという奇跡!おもしれええええと思えるような活動をしていければいいなあといつも思ってます。はじめからわかるわけないじゃんね。んでもって、芸術ってのは教科書どおりな答えがあるわけでもなく、説明書があるわけでもないもののことを言うんだよ。そういうものが私は好きだし、そこに私たちが居る余地がある。自分で地図が書けるんだよ!すっごい面白いじゃん。なんかの確認作業ほど退屈なことはないと思うが、どうか。創作くらいはそうであって欲しいという希望。関わっていくことを恐れない関係というのはとうにできていて私はそれを望んでいるのだ。しかし、望みなだけであって強制ではない。そうなればいいけど、そうならなくてもいいくらいの希求のみに留まる。それくらいの距離感が心地好い。

 って話がズレたので戻します(笑)。

 NYとは対照的にボストンははじめてこういう音楽を体験する人が多かったです。でも、アートカレッジや音楽を勉強している学生が多かったのでマナーは異常に良かったし、楽しみ方を知っている感じでした。「はじめて観たが面白かった!」という感想が多く、ソロのCDが売れたことからもよくわかる。こういうのはほんとやっていてウレシイ!薔薇薔薇のときも初心者客がけっこう居たんですけど「なんかよくわからないけどイイ!」と先入観や予備知識なしに判断してくれる人の感受性の鋭さに私は敬意を払いたい。それは紛れもない、真実だから信用していいよ、その好きは。と思います。もちろん、嫌いというのもね。

 さっちゃんと話していたときに海外と日本の客の違いについて少し感がさせられました。こういう音楽が好意的に観られるようになる以前の具体的には2000年以前ではヨーロッパなどで同じスタイルで演奏しても客は聴いてくれなかったのです。だから、その時に良いと判断してくれた人はスゴイと思うし、その頃より音楽を変えずに続けている人を、私は尊敬します。

 演奏するよりも大きな音を立てる人などが多く今みたいに行儀良くなんて客には期待できなかったわけです。そして、つまらないと会場を出て行く。これは今でもあることです。客は観つづけることも、その場で帰ってしまうことも選択肢を持っている。ただ、批判をするのであれば、観続けなければわからないでしょう。それを不用意に言ってしまうのは愚かである。これでは同じ土俵に立っていないということ。そもそも客と演奏者は対等な立場じゃないだろう!我々は客だぞ、楽しませろよ!とふんぞりかえっている、お客様は神様だ思考の人。そんな態度じゃあ、楽しめるものも楽しめない。楽しみたいと思うならその渦中に巻き込まれることです。批判するために何かを受容するなんて時間の無駄だし、得とか損とか考えながらいわゆる生活に不必要な何かと対峙するのは不毛すぎます。そこで幸せになるのは言い負かして気持ち良かった自分しかいないわけで、そこには演奏者なんて目に入っていないのと同じ。
 お客様、人間宣言!はぜひ、推進していきたいです。昭和天皇だって人間宣言してるんだからサ。そのほうが世界の多様性に触れられるっていうもんです。

 そう、それを選ばない、見ないという選択肢もあるわけで、正直、何かをやっている身としてはこの無視が一番、つらいわけです。反応があるということはまだ、余地があるということですから。それともうひとつ、踏み込むならそこに相手は居ても自分は居ないという状態も不幸と言えます。自分についてのことが人間扱いされずに書かれている文章を読むとそりゃあ、心が痛みますし、ふざけんなって思うのは私が人間の証拠といえるでしょう。だからといって、そこで何かを説明するのは野暮であって、当人もよもやそんなことは期待してません。私に対して向かっていないのですから、当たり前。そういう人はそうやって書く自分を身近な誰かに知らせたいだけで、私と関わる気はないのです。だったら、書くなよ目の着くところで!とか思いますがまあ、それも出てしまった以上、しょうがないことだし、いちいち指摘していくことで何かが変わるわけでもないというのが最近、出た結論ではあります。そう、今まで過干渉過ぎたのではないか?とかね。それが圧力に感じる人もいるというか。んなん、知るかそこまでめんどう見切れるか神様じゃあるまいしと言いたいけどね。相手に求めすぎだから何時も何かが足りないと不安になっちゃうんだよ。

 ほんとうに教科書でも法律でもないんだから、嫌ならスルーする。スルー力が試されてますよ、俺も私もあなたもきみもな。いや、私だけか。

 てなわけで、こまかいレポなどはおいおい…。いや、楽しかったし、学ぶところは多かった。体力も無理せず行けたのは励みになった。けっこう、頑丈。大丈夫じゃんという確認は私にとって心強かった。