吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

生理的に受け付けない嫌いなものは、ある

 どうしても嫌なものはある。確実にある。何がどうあれ、どうあがいてもダメ。考えるのも嫌。できれば出会いたくない。だって、嫌いなんだもんというものがある。これが多ければ多いほど人生は生き難い。テキトーな距離感で出会わないようにする予防が必要。しかし、その予防をしていても不意に襲ってくることはある。それが事故であればある程度、我慢できるが人為的なものであれば、それを向けた相手に対して怒りの感情が湧く。

 かくいう自分はあまり嫌いなものがない、と勝手に思っていた。理知的な人間は感情的になるものじゃない。あれこれ嫌いを作っていては、社会生活に支障をきたす。何事も我慢だというわけで、無理をしていたら自分だけストレスが溜まるという、よくない状況に。これは良くない。嫌なものは嫌だと拒絶することが必要だ。

 嫌いと好きの感情は強いものだ。どうしようもない感情であって、それを押し留めることは難しい。一番多い感情は「興味がない」だが、それで済めば幸福だが知りたくもないのに知ってしまって嫌いを増幅させることは多い。これは苦手だから知りたくない。と、知らんふりを決め込んでいたものを「どーぞどーぞ」と差し出されあまつさえ「これを好きじゃないなんてセンスがない」などと言われるとほんとうに腹が立つ。好きなものくらい自分で決めるわ。そんな価値観の押し付けは傲慢である。私は私で選べばいいし、そこに妙な権威を付加されると余計に「それが好きな自分が好きなだけの浅はかな人だなあ〜」と内心、呆れてしまうが、それがその人の理由なのだからとわざわざ指摘したい気持ちを押し留める。

 嫌いが何かを分析すればそれが嫌いな理由が判明する。言語化することで気持ちが整理されることもあるし、相手が納得することもあるだろう。相手を説得するためには言葉が必要だ。しかし、そのためにはその嫌いと向き合わなくてはならない。そこまでしてまで、嫌いに手間をかける必要があるのだろうか? だったら、好きを選んでその好きの理由を探っていたほうが精神衛生上いい。もちろん、時には説得が必要なときもあるだろう。だが、そうする理由も自分の好きを守るためでなければならない。また、そうまでする価値があるという直感が働くとき、なんらかの縁を感じ、知らないで批判することが失礼だと感じるときも同様。向き合わないことデメリットがまさるというなら、私は向き合う、を選択する。そうでないなら無視してしまうのが合理的ではないのか。どうやら人生は短い。

 そして、言語化がまったくできない部類の嫌いに関しては考えるだけ無駄ともいえる。例えば「黒板をひっかくキーという音」が嫌いというのは多くの人が納得すると思う。そのことに理由を求める人も少ないだろう。普遍的な「嫌」である。これは共感を持って受け入れられる。しかし、これが「今流行りのヒットチャートの曲」となると圧倒的多数に「何で嫌いなの信じらんなーい」と批難され、その上、「趣味が悪い」とまでバカにされるわけである。私からすればもちまえのマイノリティ精神からか多くの人が「良い」と妄信的に感じているものの方がダサいと思うのだが、なかなかこれは受け入れられないものだ。それもわかっているのでわざわざ言わない。けれど、事故は起こる。そんな時にどうするのか。黙って席を立つか、「嫌いだから」と声をかけて相手に嫌いを理解してもらうしかない。食べ物や飲み物で考えるとわかりやすい。「どうしても鶏肉が食べられなくって」「お酒呑めないんです」と言ったらどうだろうか。どんなに自分がおいしいと思っていても「しょうがないよね、嫌いなんじゃ」と納得しないだろうか? 無理に相手にすすめたりする人の方が鬱陶しいと感じるだろう。「食わず嫌いなだけじゃないの?」「お酒なんて最初はマズいけど慣れればおいしくなるって」というのはお節介であろう。口で言うだけならいい。しかし、「食えよ!」「呑めよ!」と無理強いをしたらどうだ。暴力だ。

 みっともない。

 相手が共感しにくいものを嫌いだと言うには説得力が必要だ。なんとなくな嫌いを言語化する必要があるのはその時だけだ。それを望んでいないなら嫌いなものから逃げるのが利口なやり方だ。人生をムダにしないために。私はそれが卑怯だとは思わない。賢い選択であるとさえ思う。なので私は嫌いにはなるべく近寄りたくない。一番、徒労に思うのは「やっぱり嫌いだ」と確認しきったときのやりきれなさである。さくらももこのエッセイでポンデキという蚕を炒ったスナック的なおやつを食べたときの話があるのだが、まさにそんな感じ。「特に興味はなかったがせっかくなので」食べたことにより「食べる前と食べた前なら経験しない方が良かった」という結論にたどり着くくだりである。なんでもかんでも知ることがいいことではない。知ることで、この世に大嫌いを増やさないために知らない、という選択も必要だ。そして苦手だと言っている人に対して無理強いをするのは「みっともない」ことだと思って自粛するほうが世界は優しいだろう。この世に嫌いを増やさないために。