吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

誤解されてて嫌だなあ

http://anond.hatelabo.jp/20070321175721

ブクマにも書いたけど、

吉田アミさんなんかに典型だけど、「何かを嫌いっていう時間に好きなものを楽しむ努力をしたい!」みたいな発想がアニメファンや音楽ファンやらマンガファン――要するにサブカルチャー好き全体に広まって行ってる様子なのかしらん。東浩紀さんも昔SFセミナーでトラブルがあったときに「批判がしたけりゃ自分がいないところでやってくれ」みたいなことを言ってましたっけ。なんだかなあ。
たしかに、頭ごなしに駄作認定してネガティブキャンペーンを張るのはよろしくない。そんな暇があったら好きなものを楽しむ努力をした方がいい。しかし分析的に、理由を挙げながら批判(≠批難)をしているものにまで「そんな暇があったら――」と言ってしまうのは精神的ひきこもり症状ではないのかなぁ。そこには成長がない。「成長」という言葉遣いに抵抗があるなら、「変化」と言い換えてもいい。ひとが忙しい毎日の中で、わざわざ時間を割いてサブカルチャーに接するときには、意識的にしろ無意識的にしろ何がしか今の自分からの「変化」を求めているのじゃなかったのかしら。現状維持したい、価値観を自閉したい、似たもの同士で寄り合いたい、という気持ちがサブカルチャーを鑑賞する姿勢として一般化していくのだとしたら、それは悲しいことだとしか僕には思えないのだけれども。

 建設的な批判なら価値があるし読んでてオモシロイ。批判をするならちゃんと対象を理解してから書いたほうがツッコまれないで済みますよ、くらいのアドバイスはあるかも。
 私が嫌な考えなのに私を典型例であげられてすごく嫌な気持ちになった。誰だか知らないし、私に影響を与えるつもりがないのでこういう書き方をしている、この人が書いているように私の考えも「たしかに、頭ごなしに駄作認定してネガティブキャンペーンを張るのはよろしくない。そんな暇があったら好きなものを楽しむ努力をした方がいい。しかし分析的に、理由を挙げながら批判(≠批難)をしているものにまで「そんな暇があったら――」と言ってしまうのは精神的ひきこもり症状ではないのかなぁ。」と同じである。精神的ひきこもり症状という言葉はなんかデリカシーがないので使いたくないが…。

あと、

『まなび』と批判嫌いの「まなびファン」のセット構造はなんだか非常にグロテスクな気がするよ。

って、何を想定して書いてるのだろう。なんか印象操作されてるみたいだけど、私が読んだ中では特にそういう批判嫌い!作品最高!絶対!他、排除!みたいな文章は読んだことなかったけど。あったとしても自分は先に書いたとおり多様性はあったほうがいいという意見なので、ちゃんと読んだりしないでスルーしますね。そう考えることは個人の問題ですから他人があれこれ違うとか目くじら立てるのはおかしい。自分にとっては価値がないかな。何かを盲信するだけのようなものは。ただ、物語というのは「敢えて」関わる方を選んで熱くなってしまったほうが断然楽しいと思うんですよ。その様子を見て関わっていない人は「けっ!」って思う人もいるのだと思うけど、ここで強制的に参加させるのはおかしいと思う。すべての人用の万能薬なんてないのだから、ちょいとこの方は他者や作品に期待しすぎじゃないか? さらに言えばそこまでの影響力のある作品の方が怖い。合う人もいれば、合わない人もいる。それを選ぶのは自分っだけなんじゃなかろうか。
 なんつーか、こういう考えって、先に「こういう結論がある」と、ありがちな思考に無理矢理当てはめているような気が。こういう知らないで書いている、無責任に書いているということの方が私にはグロテスクに思えますが、いかがでしょうか?

  そもそも「まなび」自体が他者排除がテーマではなく、他者容認の話しだしなあ。『まなび』が好きな人の感想を読んでいて楽しいなと思ったのは「〇〇よりまなびのほうがいい!」みたいな比較して他作品を貶めるような言葉が書かれていなかったからなんですけど。それはなぜかといえば、この作品がそういう話だから、ちゃんと物語を読んでいる人は同調するんだと思うのだ。作品内でも「要らないものはデリート!」を「要らないものは再利用。私が必要なくても他の誰かが必要としているかもしれないから」というエピソードもあるんですが、そういうとこがすごくいいと思ったんだけど。考えれば考えるほど、この誰か知らない人が書いていることが「誤解」だと思えてならない。私のことも作品のことも知らずに断定されて書かれると、傷つくんですよ!書かれた人は。だって、それ自分じゃないもんな。それはあなたの妄想であってそこには私が写ってない…というさみしさが。

 って、こう書いて少しでもその知らない誰かに伝わってくれればいいな。書いたあなた用に書いてるますよ、この文章は。

あと、批判的な物言いというのは、必ずしも「俺はお前の好きな○○よりもっと素敵な××を知っている」という優越感ゲームだけから出るものではない、というのはこの場を借りてちょっと書いておきたい。批判的な物言いをするときには、必ずしも具体的な何かが脳裏にあるわけではないのです。自分もまだ見たことがない、いつか見たいと願っている夢想の対象、イデアルな名作を想定して批判する、ということがありうるの。ようするに「ないものねだり」。「ないものねだり」を子供の物言いだと言ってしまうのは簡単で、批判的な物言いを嫌うひとが多い理由の一因もそこにあるのだろうけれど、「ないものねだり」があるカルチャーを前進させたケースも少し歴史を紐解けば多々ある。「ないものねだり」は「ないものねだり」としての機能をこの世界で果たす限りに於いて存在意義がないわけではないのだ。えーと、要するに知識があるから批判するんじゃなくてよくわからん理想を抱えてるから批判するのです。それを「優越感」だと断言されてしまっては辛い。

これもなー。だったら優越感と断言されないような書き方を書き手がすべきであって、説得力のある価値の在る書き方ができていないものに対して「子供の駄々」だと批判する権利もあるように思う。なんか文章がマトモに書けない言い訳のように感じる。批判を批判するな!ってそれは都合が良すぎなのでは?

「ないものねだり」があるカルチャーを前進させたケースも少し歴史を紐解けば多々ある。

って、具体例をあげるとなんなんでしょうか。批判意見に説得力や価値がなければ無視されるだけだと思うんだけどなあ。とはいえ、無視されることはあるだろうが、存在意義がないなんて私は思わない。出てきたものを無駄とか言いたくない。だから、その意見があるということは必要なんだと思える。それを選択するかしないかは、その人の資質によるものだろう。そこが個性であると思う。全部、受ける必要もないし、全部、無視する必要もない。相手に効く言葉というのは相手が必要としている(無意識であれ意識的であれ)言葉である。と、私は考えている。

どうせ話すなら提案があるべきってこれは私が何かを作る人だからね、と言われそうだが、すぐに特殊例にしないで欲しい。こんなことは多かれ少なかれ社会人なら経験することじゃないか。創造はどこにでもある。それに誰だって、自分が関わったことが無駄だとか無価値だなんて思いたくない。その言葉は残酷すぎる。怖いなあ。優しくないなあ。

要するに知識があるから批判するんじゃなくてよくわからん理想を抱えてるから批判するのです。

それを言語化するのが価値のある「批評」でしょう。ただ、断罪するだけのものは飲み屋のグダグダと変わらないわけで、それを可視化して公にするっていう根性に謙虚さのかけらもない。私はみっともないと思うので自分はしない。見たらその場から一刻も早く離れたい。議論の価値なしだもの。

って思うがどうか?って、追記しすぎ?

 こんなふうに書かれると哀しくなります。この人の言葉を受けて、まなびの話するのも、何か作品に対して申し訳ないと私は思っちゃうんですけど、書いた人はそう思わないのかなあ。失礼だって思ったりしないのかな? 作品がかわいそうとかそういう感情って沸かないのかなあ。言葉でわかりあえないのかなあ。せっかく私の名前を上げてくれて関わる気があるみたいにしてるけど、実際は私なんて人間には向けられてなくてその人が考えた、「吉田アミ」というキャラに対して向けられているような気がしてしまう。そんな一人歩きしてる自分のシャドウと戦えと? 自分と同じ形ですよ。私はそういうデリカシーのなさに傷つかないほど鈍感にはなりたくないのです。じゃないと文章を書いて誰かに発表しようなんて恐ろしいことできないし、知らないうちに誰かを傷つけるような言葉を吐くようになるなんて怖い。そんな影響力は私、要らないです。

 ちなみに、私の批評への考えは以前、こんなエントリーでまとめたことが。
『今まで議論でまけたことがない』とか、『どんな相手でも論破できる』とか自慢げに話している奴を見ると、馬鹿じゃないかって思うんだよね」 - 日日≒日キ

 最後に書くけど、私はこのエントリーで名も知らぬあなたの存在を否定するつもりはないです。あなたが書いたことでこのエントリーが書かれたのだから。必要があったから存在してるという私はそういう考え方をしています。伝わるのか?この文章…。正直自信ないけど。まあ、書いておこう。

 私はあなたに対して、失礼だな!とは思ってます。絶対、謝ってくれないと思うけどね。名乗ったらかなり感動しそうだが。人間の評価なんてその都度、変えてけばいいんですよ〜。とここまで書いてやっと落ち着いてきた。相手がわからないと想像に頼るしかないので、書くのと納得するのに時間がかかりますね。コストパフォーマンスがめちゃくちゃ悪いな。

 以上、名を語らぬ誰か知らぬがはてなの仕様により本人に可視化されてしまった私への言葉への反応とさせていただく。

 魔美のパパにならって「匿名ダイアリーに批評の権利があれば、ぼくにだっておこる権利がある!!あいつはけなした!ぼくはおこった!それでこの一件はおしまい!!つまらんことにいつまでもこだわってないで、さっさとわすれないさい。」と、自分に言い聞かせたい。

追記>
なんとなくモヤモヤしていましたが、すっきりと説明されている文章を読んで納得しました!

http://kude.exblog.jp/6635993/

サブカルチャーの楽しみ方は人それぞれでいいと思う。
サブカルチャーを批判する行為も含めて楽しい人がいていいと思うし、そうでない人がいてもいいと思う。
後者が前者を「そんな楽しみ方はやめれ」というのは余計なお世話だし、前者が後者を「批判も楽しめ」と強要するのも違うだろう。
両者が棲み分けられている分には平和でいいけど、問題は両者の文化が接触するところですね。
このあたりは、「強いて相手を無視する」というリテラシーが求められるのかも知れない。

これくらいスッキリと書ければ、納得できるなと思いました。読めて良かったです。