吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

要するに現在、流行している言説に自分がその一味として当てはめられたのだろう

 解釈の仕方も読者次第として諦めるしかないのだろう。

 でも、やっぱり間違ってるとか不愉快だとかはその都度、表明していかないと、と思いますがどうなんでしょう。賢い生き方として無視するのが良いというのもわかりますが、それこそ「好きなことしか受け入れない」ということになりかねないのではないか。相手との信頼関係成り立ってない上で、好きなことしか受け入れない姿勢を非難したりするのは「距離感がおかしい」としか思えない。そんなこと相手に言われる筋合いあるのだろうか?だーかーらー、スルー力を身につけろ、だと思うんだけど自分に関することを書かれておいてまで「無視しろ」は相手にとって都合がいい話ではないのだろうか。

 と思うんですが、間違ってますか?教えて、なぞなぞダイアリー!

 なので、私は、自分に関することが書かれたテキスト(TB、コメント、ブックマークなど自分が気づく範囲で、対象が私であると理解した時)で誤解を生む表現、間違いを見つけた場合は指摘する。ようにしていた。個人が特定できない匿名ダイアリーでそういうことを書くというメンタリティを考えると対人として扱う気はないという表れなんだろうと思う。匿名ダイアリーで書いている人の多くははてなダイアリーをやっているわけだし、idを隠して書くことが楽しさや先入観をもたらさずに、自由な議論へと発展するのであれば価値があると思うけれど、どうも今回の場合はそうではない。なぜ、idで名のならないのか?なのるなもない?それは降神だつーの。不思議。って、この考えも変かなあ?相手のことがわからないので無駄な憶測が広がるばかり。そこでまた、判断しなくてはならないから、よけいにこじれるというか。第一、私のことを「クリエーター」と書いてる時点で私のプロフィールも活動も知らない人だとわかりますよね? 知らないでイメージだけで書いてるんだと思うんです。そうやって書くことが悪いとも言い切れませんが、失礼だと思うのは仕方ないよね? だって、バカにされてるわけだしなあ。「不愉快」も我慢しろってことなのかしらん。人間じゃないんだから機械なんだから不愉快なんて思わないモノだからってね。いや、私、人間だし!銀河鉄道999に乗ったことないしなー。それにそんなモノに憧れてない。私はどうしようもなく人間っぽいモノの方が好きだな。当事者意識を持った人がちゃんとその問題を考える姿勢に美しさを感じます。知らない戦いに出て行って鬼の首とったかのようになる人が怖い。ほんと、一言で言うと怖いんですよね。なんなんだろうと思っちゃう。呼び捨てされてひどい言われようされてバカにされてそれでも甘んじろなんて、神様にでもなれと?イカロスの神話知ってますか?人が神を目指すと死にますよ。

 私はソクーロフの『太陽』の原稿でも書いたけど、お客様も天皇人間宣言しないことがお互いの無理解に繋がるという考えなので、人間が神にって思想、相容れないんだよな〜。それをプロ意識が低いなんて思われると、島本先生の『逆境ナイン』じゃないけど、「それはそれ、これはこれだ!」と思うけどな。そもそも、作り手の意識が高いから良い作品が出来るかと言えば間違い。また、良い作品というのも何を基準に良いというかによって判断は変わると思うんだよね。総体として「良い」を判断してその判断を信用できるのはそのジャンルに精通している人の言葉だよね。批評家の意見が必要なのはこういう時で。それでも人間だもの間違えることもある。誤審で死んでたまるか!は『吼えよ!ペン』ですが時代が経ることでやっとその価値がわかるようになることもある。すぐに「良い/悪い」を判断していく、ということが愚かしいことだというのはそれこそ歴史を紐解けばわかる。証拠が多いほうが判断は間違えにくくなる。異能探偵でない限り推理するときゃそんなもんだ。

 一生懸命、死ぬ気で作っても受け入れられないものは駄作だろうし、適当に作ったものが高評価なんてこともあり得るわけで。崇高な精神に超越的な作品がなんて幻想だよな。それで済むならクリエイティブな職業に着くためには、精神修行したほうが可能性は開けるってことになるけど、そんな楽なモンじゃないと思うんだよね。もっと、モノを創るってことも、それを受けることもは複雑で〇〇だから〇〇が得られるなんて、簡単なもんじゃない。だからこそ面白いと思うんだけど。まあ、これもなー批評家トライアスロンに出た時もそういう話になったけど、サプリメント化ですか?文化の。効能書きどおりの作用を期待するという。わかりやすい例でいうと「感動する作品」だから、「見る」という考えですね。かつては「お涙頂戴」として下品とされていたこの行動がいまや賢い消費者としてもてはやされているわけですよ。エロでいうと「ヌケる」から「良い」とかね。お客様は神様だ宣言の弊害!1億総みのもんた化!と私は名づけてますが。損をしないという姿勢で文化的なものと関わろうとすると、既知の再発見だけになってしまうだけじゃないか。知っている良く出来ているモノをありがたがる傾向はつまらんのですよ。気持ちよく先鋭されていくものもいいけど、それだけじゃ物足りない。だから、変なことをしてる人や判断に苦しむモノに興奮するんです。何これ!?って感動したいんだよね。だから、出てきてこれから面白くなりそうだぞーと感じたときに、すぐに「駄作」認定とかするのって趣味じゃないし、そんな勇気ないなあ。作品に対しても、作ってる人に対しても失礼だもん。これから良くなるかもしれないんだし。もちろん「傑作」とも言いません。いえるのは「面白ろそう!」か「好きだ!」という自分の判断。総論語るにゃ情報が少なすぎるでしょう。言葉ってもっと丁寧にあつかってもバチ当たらないと思うんだけどなあ。個人的意見を一般論にしちゃう言葉遣いってのも乱暴で嫌いなんです。それよりは対象が誰かわかるなかでその人の好きの強度のある言葉を訊きたい。そっちのほうが私は好きなんです。優れてるとか、合理的とかいう理由じゃなくって。

 もっと、未知のものを発見したいし、違和感を感じる作品に感動するんです。歩み寄れる余地があるほうがいいと思うんだよね。違うとわかっていても。貧乏臭い話嫌いなんだよね。得するために何か影響を変化を得るために何かに接するっていう考え、あさましい。そこに価値を見出すのは己自身だろう。なんでそんなに受動的なんだろう。それで、与えてくれなかったから欠陥品だなんて公言する心理ってなんなんだろう。自分の感受性が鈍感なんだってアピールしてどうすんの?って思っちゃうんだけどそれは思うだけで何か変えるつもりもない。そう思う人はそれが楽しいのだろうし、楽しい人に説教して変える影響力なんていらないな〜。下品じゃんそういうのって。でも、きっとそういう風に思ったということを書いただけで強要された!と解釈する人もいるんだよね。意見の提示だけしてても、押し付けがましいになっちゃうんだから困ったもんだよ。インターネット。押し付けません。この意見が必要かどうかは個人で判断してもらえますか? じゃダメっすかね?固有名詞上げて誰かに届けとやるなら、メールのほうがいいんだけど。

 私は私と関わる/影響を与える気がないのなら、個人名など上げてもらいたくないなあ。という希望を抱きます。もちろん、それは希求であって、強制ではない。ほんとに淡い希望です。希望ぐらい抱くのはそんなに悪いことじゃないよね?

 だってねー関わる気がないのにつーか、興味ないのに声をかけられて「何?」って言ったら「おまえじゃねーよ」って、『鈴木先生』の作者・武富 健治の描いた『掃除当番』に出てくる小川蘇美のエピソードみたいなモンですか。中学校ですか。って、そういうのを「失礼」だと思うほうがふつーの感覚だと思うのですが、私の方がおかしいのでしょうか。ああ、あれかインターネットなんて相手は電人という感覚で付き合わなきゃだめですよってことなのかな。うーん、そうじゃない付き合いがしたい。そういう人も居てよくね?って、まあ、そういっても2007年そういうフィルターはまだ開発されていないのだから、どうしようもないか。全てのことに希望しながら仕方ないって諦める作業してて惨めな気分になりますね。この文章は。
 
 なんか正直、この手のネット作法論とかもうほんとどうでも良くって、関わりたくないんだよね…。ということで今後は全力でスルーすることにします。さすがに無駄すぎるし、精神衛生上良くない。また、自分でもそこまで関わるコストを捻出できない。っていうか、やっちゃって後で困るのは自分…。

 なので、

きっとその男(ひと)そういう「リアクション」を「コミュニケーション」だとかんちがいしてたんじゃないかな?


 「ワッ!」て出して 驚かせて、「ワッ!」て出して 驚かせて、 自分があきたら 相手をかえて、 ……あきられる前に ……相手をかえて。

 
「サユリ1号」村上かつら

 という人はもっと付き合いの良さそうな人の名前を呼ぶといいと思うヨ!私そんな面倒見良くなりたくないし、そうすることで自分を嫌いになりたくないので!というようなことを考えてました。優しくなりたい。

ちなみにこのネタでこんなのがありましたっけ…!→http://d.hatena.ne.jp/kagami/20060522#p3
私自身がこのネタと混同してた!