吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

切実さの向うところ

 なんでそんなことを「する」のかに理由がある人ほどその理由が達成された時に何もしなくなる。表現とはそんな甘いものではなくもっと切実なものであって欲しい。また、それほどまでに世界を変えようと奮闘する強い表現は魅力的。当り障りのない口当たりまろやかな、デジャヴみたいな未来より、予測不可能な未来が好い。
 しかし、同時に強い表現というのは、脅威である。人に影響を及ぼす力となる。だからこそ、責任が付随し、自らが与えた影響を直視する勇気とどこか、狂ったところがなければそんなオソロシイことはできない。決意の上で選んだ道ならいっそ、引き受ける覚悟を持て。プロとアマの境目なんて、それだけじゃないのか。意図的であるか、無自覚であるか。決断しなければならない場面で残酷になれるか、日和るのか。

 仲良しクラブでお金がもらえるほど世の中は甘くない。それっぽいモノだけが顕在する余地はない。切実さは同時に押し付けがましさになる。鬱陶しいくらいの図々しさでやってくるのが強い表現だ。これが正しいという顔をして差し出される表現は何の代りもない、一つだけの何かがあると信じて放たなければならない。フラットになった世界の果てで、今、必要なのはむしろ、ビビットな鮮やかさを持った先端の言葉だ。単調で退屈な世界に変化をもたらすのは勇気をふるえるか、どうか。そこにしか居場所がないくらいの切実さでやっと立っていられるみたいな表現が私は見たい。

 影響を受けない、受けつけない不感症がクールだと評価される。
 でも、影響を受けない人生はどうだろう?

 エモーショナルに扇動させて革命が起きる。予感はある。期待しよう。
 表現とは本来、残酷で奇妙でみっともないものだ。その覚悟を引き受けてまで立ち向かう、作り手の誠実さって、そんなんじゃないのかな。

 とか、雨宮さんのこのエントリー読んでて思った。
 愛情/ノマディック美術館 - 雨宮まみの「弟よ!」

 最近、同世代の女子とそんなような暑苦しいトークをするんですが、謎の使命感を持ってる人って私は美しいなあ〜と思えるんだよね。なんかそういう言葉が訊きたいし、効くと思う。それって必要ってことだよね。私はちゃんと読者を直視してくるような、やりすぎの表現がたまらなく愛しいです。でも、それってちょう無様でカッコワルイことなんだけど、今はそういう表現のほうが時代に効いてる。いい加減、こっから見る景色は飽きたよねー。

 あと、栗原さんの
 2007-04-03 - おまえにハートブレイク☆オーバードライブ
 もなー。私はむしろ「批評家の不在」が「批評家の待望」に変わるんじゃないかな〜近いうちにとか思います。いまこそ、力の強い批評が必要だと思うんだよね。それは批評というかたちをなしていなくてもいいんだよ。言葉が力を取り戻してる。そんな時期なんじゃないかな〜というのは私の淡い希望です。ネットを通過したことで生まれるなんかもあるだろうし。今不満があるならそれは将来解決される可能性が高い。通過する前とあとが同じ道なんてそんなつまんないことはないでしょう。私は世界に期待することにしときます。

 しかし、私のやってることって批評なんだろうか?謎だ!私って何?自分のことが一番、わからない。