吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

いい子ちゃんわるい子ちゃん

 そういえば昨日、原稿チェック打ち合わせをしたときに編集者の人が「アミさんの原稿、英訳したらものすごいやりやすかった」と言われました。村上春樹チルドレンですから!←絶対、違う。けど、そんなこともあるんだなーと思いました。私の原稿は文法とかめちゃくちゃで、イキオイだけで書いてる感じが否めないのですがそういうのがあってもいいというわけでありますよココに…。なんかね、最近、思うのが自分の作品を貶めることってそれを読んで感動してくれた読者を同時に貶めることと同じだよなとか思うとやっぱちゃんと全力で書かないと自信持てないし自信持てないと「こんな作品!」となって、自信なくても「でも、そんな作品が好き!」って人もいるわけですから逡巡しても仕方ない、全力でやればいいだけだよなという結論になりますよね…。読者に媚びた作品を作るのは読者に失礼だと思うんですけど、媚びろ!サービスしろ!という人のほうが最近、声大きく感じる。文化的なものに対してサービス求める心理ってなんじゃラホイと思うんだけど。ゲージュツなんてそもそも無駄だ。無駄こそ最高の贅沢だ。と考えない人は自分のような作品や私が好きなような作品は「不要」なんだろうなあ。きっと、間に合ってるんだろう。けれどそれは仕方ない。誰かの「不要」が誰かの「必要」であるだけだ。必要なところに届けなければ。

 満場一致の価値観はキモチワルイ。そんなものは幻想だ。正しいものよりオモシロイものが好きだ。

 よく人と話してるけど「今の時代。この最適化された世の中で生きにくいと足掻いている人たちに向けた何かが圧倒的に足らない」という話ですがよーするにカウンターみたいなもんが「無駄」や「バカ」なことと軽んじられる傾向って、どうなのよといういきどおりがあるので、自らすすんで頑張りたいし、そういう愛すべきバカは褒め称えたい。サブカルチャーがサブカルになってカウンターカルチャーでさえなくなって久しい昨今、なんだか息苦しくないですか? 私は息苦しい。ので、作り続ける。息苦しくなくなるまでな!

 いやーみんなそろそろ飽きたよね?違う景色が見たいよね?(これもよく言ってるな)

 私のパンク精神が反骨精神が炸裂中です。「イタさ」が「強さ」になる瞬間を幾度も見たいものです。再生ですよ。強度をましましますよ!

 すごいふつーな話ですが。まあ、そんなわけで全力でゴールデンウィークも走ります!そのあとのこともいろいろ考えててこんなんしたいなーとか漠然と思ってるので、相談してみよう。一人でできないことをやるのが今年の自分の課題であります。

 そうそう題名に書いた「いい子ちゃんわるい子ちゃん」のイメージは高野文子のマンガ『おともだち』に収録されてる『私の知ってるあの子のこと』のピアーニとジャーヌのことだ。

 「いい子になりたかったね」

 いい子になれなかった子も要らない子じゃないよ。
 いい子じゃない自分はそんなふうに思うのだ。

 メインとカウンターの共存。いい子もわるい子もおともだちになって<拮抗している状態>。そのバランスをとっていくために少しでも力を貸していきたい。なので私はカウンターの方に回ります。一生カウンターカルチャー宣言。1989年頃の『宝島』読んでて思い出したわ。いい子ちゃんはメインカルチャーで頑張ってください!あなたが在るから私が要ります。陰日向。どちらの景色も良いものです。