吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

地味に作業しております

 しかし、昨日はFFFFOUND!をちょっと試してみたら思いのほか面白く今まで溜めていたクリップを集めたりしていました。洗ってみると昔のサイトはかなりなくなっていました。改めて一つのことを継続していくことの難しさを感じました。だからこそ、続ける覚悟のある人になりたいものです。荒俣宏とりあえず同じ場所で10年同じ事を続けてみろ!と言っていて私は継続は力なりを座右の銘にしておるのでした。
 私は10年以上、音楽の活動、また文筆の活動をここ数年、行っています。「何かを作っている同士」というのは、どんどん周りにつながっていってしまいます。それが音楽であれ、美術であれ、文学であれ、同じだと思う。スタンド使い同士は惹かれあうの法則です。作り手っていうのはスタンド使いと同じ。そして、同じ問題を抱えてる。

http://www.e-vol.co.jp/hardlistening/interviews/theevens_1.html
 「新しいアイディア、新しいアプローチというものは2000人の前では起こらない。そういうのは20人〜25人が目撃するものなんだ」 イアン・マッケイ

 という言葉があるとおり、ほんとうに新しく面白いことは25人くらしか認識していない。その数が増えたときにやっと人はそれを発見し、周知し、理解され、受容のルールが決まって、評価されていく、この繰り返しでしょう。そして、その25人は常に新しいもの、今まで誰も価値を見出せなかった何かを探している。私たちの目の前にいなくなったあの25人はきっと今は違う遊び場で楽しく遊んでいる。今はどこが遊び場になっているんだろう?私たちはいつもその25人が使い古したオモチャで遊ばせてもらっているだけなんだ。私も、僕も、本当はその25人になりたい。25人になって誰の手垢もついていない新しいオモチャで遊びたい。だけど、私も、僕もこれがいいと言い切れる確信がない。なぜ、あの25人はそれを面白いと言い切れるのだろうか。羨ましい。私は、僕は自信がない。他にない、今までにない、だからオモシロイと思うのだろうか。私は、僕は、いつも見出された価値を、遊び方がわかってから、楽しむだけだ。それでいい。それもいい。わかって遊ぶことも、わからないで遊ぶことも同じじゃない?多くの人が楽しめるならそれでいい。だってきみは、あなたは、私が、ぼくが、気がつかなかった新しい楽しみ方を、教えてくれた。一緒に楽しめなかっただけで、今度はきみが、あなたが、それを発見する番になって、私が、僕がそれを楽しむ側にまわるかもしれない。そういう関係が、好いと思ったのだ。

 と、後半はなんか詩みたいになりましたがそういう感じです。価値観が拮抗してる表現が私は好きや!正論は人を追い詰めるからな!