吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

どんな風に読んでもらいたいか

 などというのを決めるのは読者に対しておこがましい上、押し付けがましいのでしない。なのでいかように読まれても問題ナッシング!なのですが、だいたい私というのは想像力がムダにある上、あらかじめどう読まれるのか、すでに想像し切っちゃっう(組み合わせは無限大)わけで、大方の予想通りの楽しみ方、貶し方をされるわけだけど、時折、「オイ!そこかよっ!」とツッコミたくなるよな読み方をしてくれる人がいてそれを見つけると、ついニヤニヤしてしまう。するよね!?面白くね!?受け手と作り手のチキンレースですよ。ハラハラどきどき続きをどーぞ。ああーおもしれえじゃんそういうのって。
 でも!面白くても!嬉しくても!(なるべく)絶対に反応しないようにしている。すると書きづらくなるから。無関心なフリしながらエゴサーチですよ。だいたい、書いてもらえるだけありがたい。読んでもらえるだけでめっけもん。感情は大きく動けばいい。悪くも良くも。必要な人には効くし、不必要な人には効かない。そんなくらいの影響力だから好きだ。ハァー(どこいつのカエル風)どうもありがとうございます。ちゃんと読んでくれるとウレシイ。酷評するのは書き手のためだとかなんだとかいう作り手の人間性無視、アーティストは生む機械ですから的な批判で、書き手が育った話を私は寡聞にして存じません。褒め言葉でいい気になった人はいっぱい知ってますけど。聞いたことある?「私、酷評されたからここまでできたのよ!」聞いてみて〜。作り手も自信満々にやってるわけじゃないから。おずおずと「これ、受け入れられるだろうか」の孤独で差し出すものじゃないのか。誰かに受け入れられること前提で何かを作るわけでなし。もちろんターゲットを想定して作るものもある。しかし、新しいものとなると、今まで可視化されてなかったターゲットを相手にするわけで、予想が立てずらく、不安だ。そういうものを投げかけておいて、自信満々に「これがわからないやつはバカだ」と受け手に期待せずに差し出すなら、なんでお前はそれを発表するのだ?と言葉を返したくなる。

 理想の関係はあるのだ。あなたがいるからわたしがいる。書けば、凡庸な言葉だが当たり前すぎて忘れてしまってないだろうか。時々、思う。感じる。
 ちゃんと向き合って、ある言葉ならどんな言葉でも愛があるが、まともに向き合う気もなく、やりすごされた言葉はすぐに忘れてしまってもいいし、実際、すぐに忘れる。それはただ、失礼なだけだから。だけど、それにも意味がある、と見出せるか見出せないかは人それぞれ〜。