吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

言葉にしないと伝わらない 言葉にすると伝わってしまう

 誰かに何かを伝えたいと思うなら言葉にしなくては伝わらない。誰かに何かを伝えたいと思わないなら言葉にすべきじゃない。という当たり前のことを考えていた。いろいろと自覚的でありたいものですね。どうせなら。
 とにかく私には圧倒的に「褒め」がたりないね。全人類に褒めを強要したい。あまりに褒められないと死んじゃうよ!ってことで、たぶん、「言葉にしないと伝わらないんだよ…」「言葉にすんじゃねえ!」が交互に襲ってきたのだろうと推測。たいてい、褒める人は褒められたい人だから。考えてみると自分はあんまり言葉にされずに生きてきたので、言葉にするのを躊躇い続けてきたのだが、自分の何気ない言葉で人が一喜一憂している姿を知ると、どうせなら、自分の言葉で少しでも良い影響があったほうがいいな、とは思う。しかし、そんな影響は所詮、願いや祈りであって、言葉を発しているときはにっちもさっちもいかないギリギリの状態だから思いやりも何もない。ここではない何処かを目指しているだけで、そろばんはじく暇もない。あったらうまくやっているわけで、ないからうまくいかないのだ。うまくいかないから、次はと、期待する。次は、がなかったら、次は、はなくていいと思ったら…と思うと、どっと怖くなる。自分のために生きられない人間は他人のためにと言葉をすり替える。次の、予定がなくなったら、約束がなくなったら、自分は耐えられるだろうかと思うと、こんなに怖いことはない。誰にも求められていないと知ってしまったらどうなるのか。これが続かなくなったら…。考えるだけで恐ろしい。誰にかに求められていないと消えるのは妖精や妖怪の類だが、そうじゃないと言い切れるのか。予定があると、他人に迷惑かけたくない、と思えるので存在する理由ができる。存在する理由がないと居られないというのは、ひじょうに脆い考えで、実際、理由がなくても存在は、在るものだ。そこに理由など在るわけがない。ないのにある。と考えないと不安というのは、とっくに克服した気になっていたが、昔のことを思い出さなければなならない本を書いたせいで、じわじわと、おかしな精神状態になりやすくなっている気がする。これはひじょうに良くない症状だ。けれど、克服なんて本当は一生訪れないのかもしれない。小さな逃避。目を背け誤魔化して夢を見ること。自分の根本にある、圧倒的な欠落感が埋まったら何もやらなくてもすむのかもしれない。何もやらなくてすむようになりたいけれど、何もやらなくてすむようになった私は私と言えるのだろうか。何もやらなくてすむようになった私はこんなことに煩悶としない私だ。そんな私がうらやましいが、もうそれは自分じゃないから、今の私の気持ちなどわかってくれない私だろう。たとえるならゾンビになって起きあがる自分とそれを撃ち殺す自分だ。撃ち殺す自分の苦悩は死ぬまで続くのだ。撃ち殺し続けなければならない。いくらでも立ち上がる。相殺できない。ひきがねを引く方向が間違ってる。気づいていても、それを躊躇う。引き続けることを選び続ける。これが日常になれば慣れるのだろうか。

 でも、こんなひどい気分、慣れたくない。

 わかりやすい救いなんてないんですよ。地獄はずっと続くんですよ。
 地獄にも花が咲きます。もっと、花を。薔薇がなくちゃ生きていけない。