吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

きょうみた夢は…

 先日の関西ツアー中に祖母の危篤を知った。
 
 人前でどういう感情を持てばいいのか、迷った。
 悲しむのか、平然とするのか、打ち明けないのか、笑うのか。
 今までの自分の人生を検索してみる。私は多くの死には立ち会って・いない。ほんものの死を知ら・ない。それらしき感情を探ってみても・わからない。学習されて・いない。否定ではじまる感情しか、知ら・ない。ならばどうする? そんなことを、考えてこんでしまったのだ。
 
 なんと薄情な、と。そこで感情が堰き止められることが、信じられないという風だった。自分が。私はここで何を、思っていいのか、そもそも、良い/悪いの判断を仰ごうとするのは何故か。

 知っている。理由はある。
 憎しみがあるからだ。哀れんでいるからだ。
 だから、死んだ方がずっといいと心の何処かで思っていないか? 改めて、自分に問い正さなければならない。それが薄情なことだと思う反面、そう想う気持ちがまったくないのは嘘だということもわかっていた。感情は一律ではない。多元だ。複雑に重なり合っている。苦く甘く辛く切ない。嘘だ。言い表せてい・ない。ただ、心が囂々と流れていた。反面、何処か冴え冴えとした気持ちで冷静に感情を整理している自分が居て、取り乱す隙を与えてくれ・ない。何なんだろうと頭を悩ます。こんがらがった縺れた感情が解せ・ないのに、涙は流れるのだ。火がつくみたいに。一瞬にして、右目からだけはらりと落ちるドロップ。前後不覚に落ちる。コントロールができない現象に理由を求めようとしても、答えが・ない。涙腺を火花が走ってく。片目だけ世界が滲む。歪む。軋む。その繰り返しの日々。何にでも答えを見つけようとする私の癖が崩落していく。陥没した。空洞が右目奥を支配する。幾重にもヒビが入っていく。そこには何も・ない。ただ、在るのは知っている以外の知らない感情。
 
 今朝方見た夢は、元気になった祖母が病院のベットで私に語らう夢だった。病院のベットもぜんぶこないだと同じ。歩いた階段も。匂いも。すべてが同じ。トレースされた夢の中で夢を見る。願望なのだろうか。しゃきしゃきと変わらずしゃべる、私の知っている意地の悪い祖母が、夢みる乙女の口調で世の中を許す。何もかも不平はありませんよと私に伝えに来る。私はそれを黙って聞く。
 
 目が覚めて気がつく。
 安堵。これは安堵だと知る。
 私は祖母の死を望んでいない。どんなことがあれ、誰だって人がこの世から一人居なくなるのはせいせいすることなんかじゃない。こんな当たり前の。誰もが当然に言うそして自分も同じように人にかけるような真っ当なことなに。私は自分の感情をそうなるまで信じられ・ない。だから、私はその気持ちになったことを、ホッとする。そこで、少しだけ許された気になった。一体何に? 何も変わっていないのに。おかしな話ですよね。
 
 きょう祖母は目を開けたそうだ。
 伊勢神宮で買った鈴がしゃらんと鳴った。