吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ユリイカ2008年6月号*特集 マンガ批評の新展開に寄稿しました

ユリイカ2008年6月号*特集 マンガ批評の新展開

ユリイカ2008年6月号』 


■連載
  私の昭和史 戦後篇 30 / 中村稔

ザナドゥーへの道*3
  原典探索者 ポール・ペリオ / 中野美代子

■ 「即興」 の解体*2
  アクティヴ/パッシヴ・フィードバック / 佐々木敦

■耳目抄*273
  地道な支え / 竹西寛子

■詩
  水の女、眠る男。巨大女、遠い場所 / 早坂類

特集*マンガ批評の新展開  

【進化する表現論】
マンガにおける視点と主体をめぐって / 夏目房之介×宮本大人×泉信行

【マンガを読む/読み替える】
「キャラたち/キャラクターたち」 『3月のライオン』 ――零たちと読者たちの視点 / 泉信行
ユートピアゆき猫目の切符 『よつばと!』 のメタ感情記号 / 斎藤環
いつかあなたとはお別れしなくてはなりません
 作者である飼い主は愛する猫との別れをどう描くのか / 吉田アミ
福満しげゆき、あるいは 「僕」 と 「美少女」 の小規模なセカイ
 マンガは複眼で触り続ける / 杉田俊介
平坦な戦場をループさせることで生き延びること
 『リバーズ・エッジ』 と 『ひぐらしのなく頃に』 を MAD する? / 濱野智史
うるさくて何が悪い 黒田硫黄と黒と白 / 麻草郁

【注目作家インタビュー!】
荒川弘

鋼の錬金術師.jpg
現実(リアル)を素材に夢(ファンタジー)を錬(ね)る 『鋼の錬金術師』 という錬成の行方
 / 荒川弘 [聞き手=藤本由香里

世界の断片をつなぐマンガの力
 / 島田虎之介 [聞き手=伊藤剛

【マンガ/批評の未来】
マンガの/と批評はどうあるべきか? / 東浩紀×伊藤剛

【マンガ批評も変わる】
テヅカ・イズ・デッド』 のそれから / 伊藤剛
一般キャラクター論のために 『テヅカ・イズ・デッド』 再考 / 師茂樹
コマ割りは 「何を」 割っているのか 翻訳者のノート / 野田謙介

【「日本マンガ」 という悪い場所?】
「クールジャパン」 と 「MANGA」 / 小田切
漫画の新しい体質 / 福嶋亮大
おたくと漫画 / 森川嘉一郎

【マンガ読者の現在】
失われた成熟を求めて マンガ・オタク・批評 / 東浩紀×伊藤剛×金田淳子

【パリからのレポート】
国際会議 「マンガ、60年後・・・・・・」 について マンガ・西洋・アカデミズム / 中田健太郎
オタク現象と日本のポストモダニティ / 東浩紀 [コメンテーター=ミシェル・マフェゾリ]
日本マンガにおける「演出」と「フレーミング
 様々な視覚的物語手法の分析(長谷川、手塚、ちば、小島、高橋、すえのぶ)
 / グザヴィエ・エベール+パスカル・ルフェーヴル [コメンテーター=アンリ・モルガン] (訳=野田謙介)
西洋的 「オタク」 についての覚書
 ヨーロッパのマンガファンダム誕生における日本文化の 「芳香」 の重要性
 / マルコ・ペッリッテリ (訳=中田健太郎

■特別掲載
  シャールとヘラクレイトスニーチェ / 吉本素子

■今月の作品
  唐作桂子 このみ真帆 / 選=辻井喬

■われ発見せり
  知の条件、条件の知 / 渡邉大輔

 ユリイカのマンガ批評特集に「いつかあなたとはお別れしなくてはなりません 作者である飼い主は愛する猫との別れをどう描くのか」を寄稿しました。

 猫エッセイの傑作!大島弓子グーグーだって猫である」と須藤真澄「長いさんぽみち」の2作品における作者と猫との関係、そしてその別れについて考察しました。後半の須藤真澄のくだりはヨシダマガジンVol.2 『マンガ読んでる?』にもありますが、2作品を通してみて、さらに深い考察になっています。

 「あなたとは」という書きをしていたのを入稿してから気がつきましたが、いつもなら絶対に<とは>としないんですよね。あなた<と>と書く。自分でも不思議だったんですが、読み返してみてわかりました。作者が猫との関わりを描くとき、主体は作者になるわけで、あなた<と>(共に)ではなく、あなた<とは>なんですよね。って、キチガイみたいですか?この表現の違いのこだわりは。先に手を離したのはどっち?
 猫を飼っている人にはつらすぎる内容なのでご注意ですが、「グーグー」も「ゆず」もすばらしいマンガなので、興味をもたれた方はぜひ!特に猫を飼ったことがない人は読め、読め〜(ほとんど呪い)そして、うちひしがれればいい!自分がどれだけ想像力がなくて、猫を飼う人がどれだけ考えているのか、真摯か、ということを。もちろんすべての猫と人間の関係が幸福であるはずはないことも私は知っている。知った上でそれでも猫と暮らすということはどういうことなのか。知らない人よりも経験している人は深く考えている。考え悩んだ上で、それでもという態度を私は頭から否定するのは残酷だと感じる。一番、センシティブで傷つく人間の言葉に耳を傾けなければ私たちは鈍感になって、人を傷つける。これが一番、怖いことだ。
 紙数が足りなかったが、大島弓子作品における自意識の問題にも言及しています。どうしても、書きたかった、そして、多くの人間が読み間違えまくっている大島弓子評を少しだけでも書けたのは、書き手冥利につきます。大島弓子だけでも1本書きたい。いや……1本じゃ収まらないかも……。

 大島弓子は語る「自分の本質は毒です」と。私はそれを炙り出したい。読者は好意的に騙されてくれる。それだけじゃない、部分にこそ大島弓子の本質はあるのに。<狂気>がない作品は魅力が乏しいと思う。作者が割り切れない<狂気>を孕んでいなければ、<共感>だけの物語は私には魅力がない。作者さえも手がつけられない領域を有してこそ、新しい可能性を生む。知らない感情を知りたいのだ。気がつかない見落とした何かを、知りたいのだ。これは須藤真澄の作品にそのまま繋がる。

 とはいえ、相変わらずもたつく部分もあってまだまだ削ぎ落としてシャープな言葉で書けるはずなんだよな。むむむ。難しい。評論も物語もどちらも書き続けたい。どちらかが抜けると私は書けない。客観と主観が幾重にも複雑な構造になって、すべての関係がそこに在るようなそういうものが理想だ。複雑すぎると物語になっちゃうんだけどね。

 5月30日にはグーグーの最新刊も出るよ!チェークチェーク!チェークアーンドチェック!

 うわー!い、今、郵便受けにあったユリイカとってきて自分の原稿読んだらゲラ時にはなかった図版を入れてくれてる!山本編集長ありがとうございます!つらかっただろうに……。*1ほんとうに自分の原稿ながらよ、読むのがつ、つらい。ほとんど条件反射的に胃が痛くなる。須藤真澄先生の『長い長いさんぽ』の表現の強いなあ。

■今回のアサマシリンク!

ユリイカ2008年6月号*特集 マンガ批評の新展開

グーグーだって猫である/大島弓子

グーグーだって猫である2/大島弓子

グーグーだって猫である3/大島弓子

グーグーだって猫である4/大島弓子

長い長いさんぽ/須藤真澄

追記>
http://d.hatena.ne.jp/nogamin/20080530/1212095572を読んで、私の文章がかなり前提条件をすっとばして書いてあるので、説明不足だったようなので補足。

ブクマにも書きましたが、私は作者(=大島弓子、少女)が自覚的に猫(=他者)を認識したのがグーグーと考えている。
大島独自の他者を認めない姿勢(=少女性)という名の少女フィルターは、年を追うごとに次第に喪失していくのだが、決定的だったのはグーグーとしているのは、作者が他者の意識に対して自覚的であるから。それまでの作品の中に他者が居ないのではなく、作者に他者という自覚がない、という違いがある。
猫の姿の猫というのが非常に象徴的で、今までの大島弓子なら猫を猫の姿では描かない。なぜ、猫を猫の姿として描かざるを得なかったのか、というのがポイント。

グーグーも長い連載なので、後半と前半ではまた、微妙に違っている。
いくら自明しても、少女フィルターとはいきなり消えるわけではない(←ココ注意!)グラデーションのように徐々に明るくなり消失していくものなのだ。

ちなみに大島弓子の猫マンガは
綿の国星('78)〜
サヴァビアン('85)
椿の木の下で('87)※指摘されている点茶の話はコレでチビ猫シリーズの(絵本を省く)実質上の最終話となっている。
グーグーだって猫である('96)〜連載中

である。

作者は82’から猫(サバ)を飼っていて、それ以前/以降では猫の描写の精密さにはあきらかな違いがある。ファンタジーからエッセイになっているというのはそういうこと。ファンタジーのときはわからない部分も作者が「理解」してしまっていて、その姿勢が「他者」が居ないと感じられていた。現在、グーグーを描く大島弓子は「他者」(=猫を含めて)と自己の境界線はくっきりと分け隔てられており、わからない他者に対して、自分で独自的に理解するのではなく、「わからない」とするか、「尋ねる」という姿勢を貫いている。そこには、サバを通して世界を、自分自身を愛した少女性を持ったままの大島弓子の姿はもうない。
というつもりで書いたのだが、ポエムがすぎたかも知れない!だって、詩と批評の雑誌なんだもん!ユリイカってば。

あとは別で大島弓子と少女論みたいなものを書ける機会があれば書きたい。いくらでも書ける(笑)。

*1:山本さんは猫飼っているんです