吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

にちようび

 今日は何もしないぞ。何もしないで夜になったら事務仕事と部屋の掃除をする。ということを明言しないと、仕事をしてしまうので(いや、いいことなのだが)自己の精神的、荒み具合を防止するために薄ボンヤリしたい。といっても、資料の読み込みは続けるがな。いろいろ何にも考えたくないときもある。

 ところで、昨日は5個の予定が重なり、何を選べばいいのか分からずじまいであったが、突然の雷雨などで諦めがついたりつかなかったりした。そう、5月といえば薔薇の季節である。鈴木志保先生のサウンドトラックの打ち上げがあって、単行本と完成版CDをいただく。そして、あこがれの鈴木志保先生に対面。中学生の頃の私が知ったら失神するであろう事態が訪れるが、この年になるとさすがにそうもいかず、いや、そんな様子であれば問題ありなので、まあ、いいんだろう。今、WebDICEでやってる連載の次は鈴木志保先生を取り上げようと思っているので、インタビューモードで質問しまくってしまう。私が感覚でリンクしていった作品や人と同じセンスが鈴木先生の作品世界にあった、ということが15年ぶりの答え合わせだった。しかし、「やはり」という部分と「知らなかった」がない交ぜになっており、これは嬉しい発見であった。いや、まさか、あれが、それで、それがあれで……。

 レーベルメイトの西島大介先生とも合いつつ。マンガのこと(しか考えてないのか)どうにかリンクして、おすすめできないのか考える。鈴木志保先生と西島大介先生の担当編集者は同じなのだが、その人の「好き」というセンスと自分のセンスが似ているのだが、これをきちんと明文化できていないので、感覚とか雰囲気とか気分で誤魔化さずになんとか言葉にできないものかと思っているが、気分は気分でよかったりもするという発見も前回、原稿書いていて思った。自分はなるべく、当事者、作者の置かれた状況を客観的に書くようにしたいと思い、それは対象への愛情というか、対象を貶めることが目的ではないので、丁寧に接したいと思う。でも、いつもできているか不安ではある。そうやって臆病になりすぎると読者には届かないものである。読者はもっと快楽的に理解や得が欲しいだろう。その生理を非難することはできない。けれど、まあ、ぶっちゃけそれだけじゃないよねーというのも分かっていてほしい。とりあえず自分は分かっていたい。

 sound cafe dzumiが昨日、2周年でした。マスターがあまりにも私が考えるマスター像に近く、地味にテンションがあがった。マスターもっと強い酒ちょうだいよ!ができそうだ。

 今、「即興考」書かないとまずい、という危機感がある。これは近いうちに連載を予定している。英語でも読めるようにする。怒りや憤りが創作の根源になるときがある。だが、私はどこか非常に冷淡である。冴え冴えとした絶望の上で今が成り立っている。

 おかげさまで「蕎麦と薔薇」は、評判&売れ行きも良いらしい。よく勘違いされるが、アーティストが自ら宣伝したり、流通をどうにかこうにかするものではない。レーベル側の運営やさじ加減によって、お求めやすさは変わるものである。文句はレーベルに言ってほしい。私の一存で何かができるわけではない。これは、文章を書くと「編集」や「出版社」がすっとばされて、書き手に直接非難が及ぶことと同じだが。まあ、それだけ、個人からすぐに消費者にというかたちが一般化し、そういう価値しか見出さない人がいるから何打ローなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーとは分かっているけど、頭がどんどん馬鹿になる自分に対して危機を持て。

 以前、よく知りもしない無知な人に噛みつかれたが、その無知は恥ずべきである。10年前の状況に比べれば、ずいぶん、世の中は便利になり、ほんとうにほしいと思えばその現物に立ち会える状況になっている。それをしない怠惰な人に勤勉な人と同じ「何か」が平等に与えられると思ったら間違えで、勘違いも甚だしい。怒りを表さないほど、私は人間できてはいない。

 世界はもっと複雑だ。

 ということをアホほど書いてる気がするが、白黒、良い悪いしか判断しない人は愚かだと言ってしまっていいんじゃないのか。そういう人はキーワードですべてを脊髄反射的に判断する。判断するコストを下げるという点では賢いのかも知れないが。

 とかなんとか。

 まあ、毎日、絶望している。希望が持てないほどに現状は最悪だ。とりあえず、今日のパンが得られれば幸せだと思う。それくらいの近視眼的な気分。

 でも、ほんとうは、そんなふうに思いたくない。

 他人に期待したい。どうせなら良くなりたい。あなたが好きだといいたい。それが叶わない。

 理想と現実が乖離している。

 そんな気分で、終電後タクシーを飛ばし、ライフの収録に立ちあった。東さんが発する「つまり」の数を数えにいったわけではない。妙なテンションではあった。否定と肯定の感情が同時に訪れる。現在が、決定ではないのだということに希望を持てばいいのか?と、思うが、どうなのか。

 他は心配しかしてなかった。

 東さんはいつ息継ぎしているのだろう、といった身体的な疑問もあったけど。マン・マシーン?そのテンションに引きずられて、チャーリーの緊張感が伝わってきて、いろいろ心配に。でも、何にも助けてないが(笑)。BL的に変換してみるとかなり萌える要素があった。自分の中の新たなチャクラが開きそうであったよ。

 一つだけ謝罪するなら、前回の放送で「チャーリーって、敬語できるの?」と言ったこと。ごめん!できてるYO!

 と、まー。

 いろいろ。一日でぐるんぐるんした。

 足りない言葉は、後で補足すればいい。そのグルーヴを止めるくらいなら。

 そう、ここまで書いていて、ヒアホンのイベントにいけなかったことが悔やまれる。しかし、私は一人である。佐々木さんのことがいろいろ気になっている。他人には不幸になってほしくない。自分が不幸になるのは慣れているという、しょうもない、最悪な思考になる。いや、一番の幸せは全員を幸福にすることだ。その幸福の具体性がない。私の思考の改めるべき点は「損して得を得る」という妄想だ。どこか、その不幸に酔ってないか。いつも思う。つらさを感じるほうに行く。でも、他人の苦しみは嫌だ。自己犠牲を発揮しているほうが、自分は痛みを感じない。すべてを投げ出せば、自分が責任を負わなくていいから。それは向き合っていない。逃げている。

 どうしてあのときああいう声をかけれなかったのか。

 後悔だらけだ。

 なんとかできないのか。なんとかならないのか。

 分からない。