吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

バカじゃないモン!

 「他人をバカにするな」という一文だけ書かれたメールが届いた。

 先日書いた日記のことを指しているのであろうか。返信したが戻ってきたので、書いておくけど、他人をバカにする気もさらさらないというか、そもそも「日記」は自分に向けて書いている。バカなのは私だという話だ。他人ではなく自分をバカにしている。もともと他人を啓蒙しようとか説得しようとかいう意図はないし、それをするにはブログの文章だけでは無理だ。私には時間がない。とはいえ、公開しているのはそこから誰かが何かを感じ取ってくれればいいな、とは思っている。このささやかな企みを人によっては啓蒙と感じるのか。人とはそんなに影響されやすい生き物なのだろうか。私は影響されにくいのか?いや、薄情なのか?人として欠落しているのか?でも、どうしようもないがそれが自分なのだ。が、分かっているなら努力はすべきだろう。というところで内省が終わる。日記とは内省である。とは誰かが言わなかったか。言わないか。

 すべての表現活動は啓蒙?洗脳?と怯えるのはどうなのか。見ない自由もあるのに謎だ。それともこのブログはすべて監視が必要なくらいの危険思想なのだろうか。

 翻るとそれだけ魅力があるってことなんだろうなあ。と棒読みで思った。

 そういえば前に1分に1回くらいのペースでメールが届き続けたことがあって、それに全部返信し続けていたが、さすがに今の私にはそこまでやる気力がない。あの人はこの世に存在しているのかしら。私の頭の中の妄想ではないのだろうか。時々、そんな風に熱心な読者が突然、現れては消えるのだが、寂しさだけが私の中でわだかまる。私のことを考えてくれる人は世界に一人くらいしかいないんじゃないかと絶望的な気分に。何はともあれ興味を持っていてくれることはありがたい。無視することがこの世で一番、残酷なことだ。時間を割いて考えてくれているだけでも、何か愛情のようなものを感じる。

 と、一行のメールに対して勝手に想像を巡らして書いてみた。結果、ラブレターみたいになってしまった。たぶん、そこまで相手は考えていないのだろう。イコール、妄想である。

 見ていてくれるあなたがいるから私は私でいられるの。久しぶりにコメント欄開放しようかしら。今、やってる仕事は孤独を強いられるのでどうも憂鬱になりがちだ。なんでもいいから反応がほしい。末期的!

 ところで、オクタビオ・パスの「もうひとつの声」にシビれまくっている。まだ、16ページしか読んでないのだけど赤線を引きまくりたい衝動に駆られる。1990年に書かれた本だが今と状況は変わっていないため、古びていない。叡智に富む内容だ。

アナロジーの本質は、意味されたものである。したがって、アレゴリーがイメージとして現れてきたとしても、それは実際には書かれたものなのである。

 そうか! すべての主語は誰かに代換可能なのだ。自分に、として書かれても、共感した人にとっては、他人はないのか。だから、物語に人は感動するのか。

 ダンテの「神曲」が読みたくなった。

 とりあえず今日は、この本だけ読もう。

 人の人生って、自分で体験しているうちはノンフィクションだが、人に伝えた時点でフィクションになっちゃうのよー。公開されている日記はぜんぶフィクションだ。