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映画「音の城♪音の海」

感想


http://www.otonoshiro.com/html/intro/index.html

 音に楽しいと書くのが音楽である。しかし、音楽とはほんとうに楽しいものなのだろうか?

 「音の城♪音の海」を観た。

 これは、2005年より神戸にて行われているワークショップ「音遊びの会」のメンバーの音楽家、知的障害者の子どもとその家族、音楽療法家たちが即興演奏をはじめ、公演にいたる過程を描いたドキュメンタリー映画だ。
 映画には大友良英さん、千野秀一さん、森本アリさん、江崎将史さんといった私がよく知る音楽家の面々が登場している。なお、大友さんを撮ったドキュメンタリー映画といえば、岩井主税監督の『KIKOE』がある。これは今回上映されている『音の城♪音の海』で記録された映像よりも前の大友さんを追っており、同じドキュメンタリーという手法、対象を取り上げているにも関わらず、対照的な内容になっているのが面白い。




 私は10代に大友さんの音楽に触れ衝撃を受け、自分でも音楽をやるようになった。今では、大友さんのいくつかのプロジェクトにも参加し、共演することも多い。また、『ユリイカ』(青土社)の大友良英特集号にはテキストも寄せている。一ファンから共演者へと移り変わり、20年近く大友さんの活動を見続けてきた私だが、なぜか「音遊びの会」のコンサートには一度も行ったことがなかった。 何故か? 自分のライブや予定と重なっていたという明白な理由があるのだが、もしかすると無意識に避けていたのかもしれない。大友さんから「音遊びの会」の面白さや魅力について語られるとき、どこかに「それでも演奏している人は素人だから」「障害を持った人特有の突飛さを利用した予測の内の音楽」ではないかという、偏見や先入観があったように思う。大友さんのプロジェクトに参加した経験があるなら、大友さんがそういったものをもっとも嫌うということはわかってはいたはずだ。しかし、その思いは払拭することができず、私は子供の頃の記憶を思い出していた。
 それは特殊学級にいた障害児が奏でた、お世辞にもうまいといえない演奏と、それを観ている生徒や先生たちの同情の目と、おざなりな拍手を強制された、あのいたたまれない感じ。先生のいる前だけで障害を持つ生徒にやたらと優しく振る舞う偽善に満ちた優等生の顔。クラスのリーダー的存在だった女子のグループにいじめられた経験を作文にして読み上げた聾唖の同級生のこと。腫れものに触るように彼や彼女らと接する、あの嫌な感じ。私もまた、違う種類の嫌な感じにさらされた。自著の『サマースプリング』にそのときのことが記録されているが、ああいった鬱屈としたどうにもならない逃げ場のない思春期を送っていたので、そういうムードには人一倍、敏感である。何かと比較した上で、同情と優越の表情を浮かべ、多数決や強者の意見で何かが、勝手に決まっていくような一方的な感じ。その決められたルールがあたりまえの顔をして、弱者をいたぶる手段になる感じ。そんなルールなど一度も選んでいないのに、選択肢など与えてもらえない。小さな声はいつまでも聞き届けられない。

 書くだけで絶望的な気分になってきたが、この「嫌な感じ」を、よく知る、尊敬するミュージシャンである大友さんから、少しでも感じてしまったら、私は立ち直れない。なにより、大友さんの音楽を聴き、音楽の自由さに触れ、私は私の好きなものを好きだと言ってもいいんだ、私の好きなものはこの世にあるんだと思った子どもの頃の自分が間違っていたということになってしまう。だから、知りたくないと思っていた。怖かったのだ。

 でも、そうは言ってられない状況に私は自らを追い込んでいた。というのも20日に大友さんをゲストに迎え、トーク&リスニングイベント「ひとのおと 大友良英を斬る!」という企画をしてしまったからだ。そうなってくると今やっている活動を知らないとは言えない。なるべくいろんなものを観て、知っておきたい。あまりにもタイミングよく、6月5日にちょうど時間が空いた。空くはずのない時間に空いた時間(いや、WebDICEで連載してる原稿書いてたんだけど……)、これは行くしかない!と勇んで行ったわけです。

 その日は上映後に『永井崇文×大友良英 〜即興ミニライブ〜』が行われていたせいもあり、会場はすでに満員。私はその回の上映には入場できず、「やっぱり神が仕事しろって言ってんだな〜」とぼんやり思いながら、タベラで原稿を直していたのだった。そこで大友さんにばったり会い、服部監督らを紹介してもらった。偶然は重なる。なんと私が原稿を直してる席のまん前が関係者の集まる席だったのだ。

 12時30分の回が終わり、2FにあるUPLINK Xの会場へ行く。監督、大友さん、『音遊びの会』代表の沼田里衣さんのトークをはさみ、セッションがはじまった。

 その音の一音を聴き、すべては杞憂に終わったのだと知る。

 音楽を言葉で語るのは難しいことだ。だからこそ、音楽を言葉で語る必要があるのは分かっている。でも、音楽は音楽であり、すべてを言葉で語りきることができないからこそ、音楽は音楽であるはずだ。だから、私は言葉に出来ないことを音楽をやっているし、その表現を愛している。

 音楽は、特に決められたルールのない即興演奏においてはだが、最初の一音を躊躇なく奏でることができるかどうか。

 分かりやすい判断として、これができるかできないかが、プロとアマ、また、お金を取って人前でできるかできないかの境界線であると私は思っている。そして、その表現を自分自身で選び、自分の演奏が良いという価値基準がしっかりできていること。これができていなければ、人前で、ましてや他人と演奏などできるわけがない。それは趣味の即興演奏だ。だが、それ自体を否定することはできない。音楽とは、どんな形であれ受け入れるものだから。ただ、演奏家としては、そういった最低のラインにさえ立っていない演奏を観たり、共演しなくてはならないときに、ある種の苛立ちと諦めを感じ、距離を置いてしまう。

 音は正直だ。その人なりのリズム、価値観があるのか、迷いながらごまかしながら音を出しているのか。すべてがわかってしまう。

 最初、永井君に合わせて大友さんがうまくまとめるような即興をするのだろうと私は思っていた。大友さんくらい即興演奏を長くやっていると、そういうことも出来てしまうのだ。ようするに過度の期待はしていなかったのである。

 でも、そこにあった音は、ぜんぜん違っていた。できない相手に合わせてあげるという、傲慢さが微塵もない。演奏として成立している。そして、それがすごく良かったのだ。

 ただ、私がふだんやる即興音楽と決定的に違うところが一つあった。それは、二人が見詰め合って演奏していたことだ。そこには確かに言葉にならないコミュニケーションがあった。相手がいるから、この音がこんな風に発展し、きらきらと変化していく。私がすっかり忘れていた即興演奏をしはじめた頃、人とセッションしたときの、根本的な楽しさや驚きがそこにはあったのだ。

 一人ではできないこと。対になってはじめて立ち現れる音。

 それは、楽器を選ぶところからはじまっている。楽器と人。演奏者と演奏者。すべては、対から生まれる。こんな当たり前で大切なことをなぜ、私は忘れていたのだろう?

 対になる瞬間は、映画の中でも繰り返し強調されている。対とは他者がいなければ生まれない。他者がいるから居心地が好いのだと彼らが徐々に学習していく。私たちが普段、あたりまえのようにやっていることが、奇跡のようなことなのだと、気づかされる。

 あたりまえすぎて大切にしてやらず、乱雑に、無意識に扱っていた所為をもう一度、外側から見つめることで、自分はなぜ、この音楽を選んだのだろう。なぜ、この音を好いと規定しているのだろう。無数の「なぜ」が、浮かび、改めて自分と音楽との関わりを問い直す機会になった。まさか、映画でそんな自分の個人的なことを問い直すことになるとは!驚きだった。

 私のように音楽と関わっている人はぜひ、観てほしいのだけど、そんな特殊な人でなければ楽しめない映画なのかといえば違う。

 相手を理解できるなんて思うのは、傲慢ではないのか? 一方的な思い込みではないのか?

 誰もが抱えるコミュニケーションの問題としても見ることができる。言葉によるコミュニケーションが苦手な人とどうコミュニケーションを図るのか。そして、それは本当にコミュニケーションができているといえるのだろうか? 実際に「音遊びの会」の人たちは、何度も問い直したのだと思う。 
 彼らとコンセンサスは取れないものと諦めて、手を離してしまうのは簡単だろう。だが、誰もその手を離そうとしなかった。私はその理由がわかる。音楽家として、その音の面白さに気がついてしまったからだ。

 ここが表現者の怖いところであり、誠実さとも言えるのだけど、この誘惑に勝てなかったから大友さんは4年もこの会に付き合っているんだと思う。

 一瞬の音、たった一音の奇跡。それが起こりうる期待と起こった経験の積み重ねが、お互いの結びつきを強固なものにしている。これは相手を同等の立場の音楽家として見ている証拠だ。そこには、しみったれた同情も優越も何もない。ただ気持ちの好いフラットな風が吹いていた。

 実力や力量で選ばれることは、残酷でもあるが、救いでもある。そこには何の嘘もまやかしもない。ただ、その人のその音が必要である。これが音楽の本質なのだ。

 そんなことを映画を観て思った。