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吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

「朝まで生LOOP「激論! ど〜する!?ど〜なる!?ど〜したい!? 実験音楽」で語り切れなかったこと(1)

久しぶりに長文を書きます。

■経緯
先日、Loop-Lineにて行われた討論会「朝まで生LOOP「激論! ど〜する!?ど〜なる!?ど〜したい!? 実験音楽」に出演しました。

企画発案に関わった角田俊哉さんより、8月半ばに依頼を受け、口頭や軽いメールのやりとりで、出演を快諾。その後、質問、どういったことを話したいか、イベントの一ヶ月前にメールが来たので自分の意見を簡単にのべた。その質問はそのまま、角田さん宛てに転送されたということだった。9月半ばから自分は、海外に行っていて、メールのやりとりがおろそかになっていた、22日以降にイベントの詳細を知り、え〜これまとまるの〜?と急激に不安に。まず、出演者の人数が最初の依頼から急増。知らない名前もあったし、出演者に偏りがあるように感じられた。

タイトルがふざけていたのも気になった。それまでのニュアンスだとあくまでも、まじめな議論、深い内容ということで、方向を転換したのだろうかと聞くと、まじめな議論であるという。しかし、出演者のブログなどを読むとまじめな話にならなそうな予感もあり、十分に企画意図が伝わっていないように感じた。こんな状態で不特定多数が観るUstなんかして、大丈夫なのだろうか?と思った。出演している作り手の人たちの数少ない発言の場である。誤解されるようなことは誰にとっても望むことではない。少なくとも自分は嫌だ。そもそも、みんな話のプロではないのだから、ある程度、台本とは言わないまでも進行や想定質問はしっかり決めておいたほうがいいと思い、メールで具体的な内容について聞いていたのだが、結局、全容はつかめず、埒が明かなかった。という不安から細かい質問を投げかけていたのだけど、具体的な回答はもらえず、かえってそれが企画側の負担になったという結果に。
はっきりいうと、トークイベントを舐めてるな、と思ったし、視聴者がすべて好意的にとってくれると楽観しすぎであると感じた。パロディ元となった「朝まで生テレビ」のように、著名人が、誰もが知っていることを話すわけでもない。ただ集まれば話が成立するというには、しゃべる経験の少ない人ばかりで、また立場の違う人が多く、音楽家、オーガナイザー、レーベル運営者、批評家、客までいたのでは、話が噛み合わないのはしょうがないこと。これならかえって、タイトルどおりパロディとして、飲み会トークだとしてしまったほうが、誤解を生まない。そこには責任がないから。杉本拓さんはそうしたかったようで、私も何も決まってない状態でUstするくらいならそっちのほうが気が楽だった。

イベントは、こんなにも何も決まっていない状態からはじまったものだった。

追記(2010.10.05):企画内容が決まっていないなら断ればという意見もあるが、決められなかったのはこちらの責任ではないし、状況はそんなに単純なものではなかった。概要を知ったのは22日前後(ただし、この時期、海外にいて、メールのチェックがおろそかになっていた)で、それまでの時点で自分の名前は公開されていた。私は自分が出演すると決まった後、出演を断ったことはないし、すでに、その時点でイベントに参加ないし、Ust必ず見ます!と、いうメッセージも受け取っていたので、自分としてはぎりぎりまで、善処して気持ちよくイベントの出演したかった。それが自分なりの誠意の尽くし方だと思っているので。

最終的には当日、角田さんと電話で話し、「なんとかなるよ!大丈夫」という言葉を信じての出演だった。その言葉を信じていた。私は企画自体に対して、そこまで辛らつな気分にはなっていない。こうして、私が文章を書こうと思ったこともそうだが、終わった後、さまざまな波紋を広げ、新たな議論を呼んだこの会は有意義なものであったと、いまなら思える。そこまで追わない人にとっては、無責任甚だしい意見であるのも、よく分かっているのだが。みんなが幸せになりますように☆

おきてから思い出したですが、そもそもよく知らないはじめて試みるような企画は、私はけっこう無条件でOKしてる。そういうことをしようとしている人に対して応援したいという気持ちが強いから。さらにそこから何か広がるかも知れないという期待があるから。でも、最近は、よく知っている人とだけ濃い時間を過ごしたほうが楽しいなあという思いもあることも。いろいろ気持ちは揺れるものだが「ほんとうににっちもさっちもいかない」というふうにレッテルを「はじまるまえからダメだと」貼るということはしたくないという思ってて、できれば「良い方向に」と思ってるし、かかわったことに対しては最終的に「勉強になった」と思いたいので、こういう文章を書いているのかもな、と思った。あんまりいままでなんにも考えてなかったけど。

実験音楽って何?
まず、冒頭に問題となったのは実験音楽は何か。実験音楽の話をするということで期待している人は、ジョン・ケージの話が聞けると思ったかもしれない。歴史的にみた実験音楽シーンについて、野々村禎彦さんが簡単に説明していた。日本の実験音楽シーンに関しては、今井和雄さんが自身の経験を元に興味深い話を披露してくれた。しかし、今日の日本において、実験音楽ましてや「シーン」などあるだろうか? いま、この場所で実験音楽シーンがある、として話すということは、何なのか。それについて関わっているのが、私や杉本さん、宇波拓君というメンバーなのだろうか? 少なくとも自分は実験音楽家という言い方をこれまで一度もしていないし、そう紹介されたというような客観的事実もない。ちなみに2009年に刊行されたフィリップ・ロベールの「エクスペリメンタル・ミュージック―実験音楽ディスクガイド」には、今回の出演者である杉本さん、Sachiko.Mをはじめとした日本のミュージシャンが紹介されているが、もちろん私の名はない。なお、帯文は佐々木敦氏で「パイオニア、重要人物は勿論のこと、未だ知られざるカッティング・エッジまでが網羅された、ゼロ年代末における最良の「実験音楽」の歴史教科書。」とコメントを寄せている。

杉本拓さんの1時間壁をこすり付けるだけのライブやギターを一音も出さないパフォーマンスや宇波君がLoop-Lineで開催しているライブなどはほとんど未見であるが、話を聞けば実験的であると思うし、それらを実験音楽の範疇に入れるのは分かる。なので、彼らが出演していること、その周辺に興味を持って足を運び続けており、現在、ループラインに関するミニコミを製作中だという客代表の星智和さんがいることで、今回の趣旨もLoop-Line(やキッドアイラックホールなど小さいスペース)でいま、行われているライブのことを実験音楽と指しているようだったし、話もそっちに持って行きたい感じだった。また、実際に会場に足を運んでくださったお客さんはみな、ループラインにこれまで来たことのある人たちであった。角田さんも杉本さん宇波君のやっている「天狗と狐」や「室内音楽」イベントに興味があると語っていた。

200人近く入たUstの視聴者がみな、それらについて知っているわけではないだろう。ここで、実験音楽とは何か、彼らがその代表だとするならば私が語るべきことはないし、そのことについて意見をするには状況を知らなさ過ぎる。発言したとしたら無責任である。けれど、このことについては、明示されず、最終的に星さんや野々村さん、北里義之さんは「実験音楽だから聴いているわけではない」とし、北里さんは「書くインスピレーションを多く与えてくれる音楽がたまたま実験的なものが多い」と答えていたのが印象的だった。また、星さんは「個人を聞いている」といっておりこれは至極まっとうで共感できるものだ。なぜなら、今井さんや野々村さんが語った「実験音楽シーン」は、80年代なら誰もがこれとイメージできるジャンルとして確かにあった。その後、90年代に入り、音楽のジャンルの多義にわたり細分化され続け、ジャンルやカテゴライズというものがまったく機能しなくなっているのはみなさんご存知のとおりだ。系統立てて線で語ることは困難で、誰もが点で個人を聞いているというほうがしっくり来る。いま、実験音楽と聞いて、ケージを思い浮かべるならまだマシだが、ニコ動にあがっているMADだって実験的という人もいるし、変わった行為そのものを実験的と捉えるなら、よく知らないけれど「神聖かまってちゃん」だって実験的といえるし、歴史を知らない人からすればそっちのほうが納得できるだろう。いま、電子音楽といって、P−MODELや戸川純をあげる人もいて驚くことがあるくらい。言葉の意味は時代によって変化していくものだ。言葉だけでその音楽のイメージを縛ることは無理である。

議論は、実験音楽から離れ、根本的に「分からないもの」「分かりづらいもの」に焦点が移っていく。ここで角田さんの主張として「受け手が分からないものを理解しようという努力をしなくなった」だから、杉本さんや宇波君、今井さん(ここでは私も含まれていたように思う)がどれだけ面白い音楽をやろうとも人が来ない。活性化しているとは言いがたい、という意見を述べた。私はこれは違うと思う。むしろ、分からないものを面白がる人は、ここ数年、増えてきている。その人たちの興味が音楽に向いていないだけだ。ここで、私は演劇やダンスを例にとった(チェルフィッチュについて中途半端にあげてしまい、批判的に話してしまいすみませんでした)。これまで実験的といえる音楽を聴いていた人、ライターや評論家たちは今、演劇やダンスに興味を向けている。アニメもそうだ。「化物語」のオーディオコメンタリーであまりにも繰り返し「アヴァンギャルド」と繰り返し出きて、びっくりした。最近では、コメントを書いた「アニメーションズ・フェスティバル2010」の内容だって、一見して分かりやすい作品ではない。私があのとき言いたかったことは、あの場で指ししめされた「分からないもの」というのは、すべての表現の話ではなく、ループラインなど周辺で行われているイベントに限っておきている現象である。安易に受け手が「分からないもの」に興味がないというのは失礼だと思った。また、そこからプロモーションが下手で人が入っているものは宣伝がうまいだけ、人気がある人に人気が集中しているだけだという、単なる妬みにしか聞こえない主張になっていく。これでは観ている人が批判的に捉えられて仕方がない。一方で音楽の現場でも、宇波君のHOSEというバンドは映画音楽もやっているので、映画ファンがライブにきているという事実を星さんは指摘していたし、宇波君もそのことは否定しなかった。ただ、そこからループラインでやっているイベントにまで興味を持って足を運んでくれる人は少ないと言っていた(でも、ゼロではないと思う)。これは、ほんとうに内容が分かりにくいため、知らない人にとってハードルが高いことが問題なのだろうか? 疑問が残る。

長くなってきたので次のエントリーに分けて書く。仕事が待っているので今日中には自分の中で、今回のイベントについての意見はまとめておきたい。記憶違い、事実誤認、意見や感想などあれば、連絡してほしい。その都度、修正を加えていく。