吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

「朝まで生LOOP「激論! ど〜する!?ど〜なる!?ど〜したい!? 実験音楽」で語り切れなかったこと(2)

誤解している方も多いようなので先に断りを入れると、このエントリーはイベント自体を否定するものではない。ああしたイベントがあの場で行われたという事実はかなり重要なことである。ある程度、分かっている人だけが観るタイプの音楽をやっている人たちが、まったく知らない相手が不特定多数見るであろうUstを使った討論会を中継するということはこれまでなかった。それだけでも大きな意義を持つ。そのことで外部からそれらがどう見えているのかが分かったあと、外部に大きな期待を寄せるのか、余計な敵意を募らせ、さらに分かってくれる相手に向けて、それらが提供されるようになるのかわからない。ただ、なんらかしらの状況は変わるだろう。それは期待してもよい。

今井さんは実験音楽のイベントは昔から人がそんなに来てなかったと言った。これはほかでもよく聞く話で、いまや伝説の人となった阿部薫だって、当時は2人とかしか人がこなかったと聞く。そもそも、新しい価値が生まれる場所と分かっているところに、たくさんの人が大挙して押し寄せるなんて状態は異常であるといえる。それらの音や行為は未来に放たれた新しい言語だ。理解できないとからと言って価値がないわけではない。判断は保留されたままだ。それでいいと思う。誰がいるのかわからない暗闇に向けて、黙ってボールを投げ続けること。その覚悟があるのなら、孤独であることは怖くないはずだ。

宇波君、杉本さんは、呼ばれていったジュネーブでのコンサートで客が0人だったという経験を話し、海外で長く生活し、演奏している村山政二郎さん(すみません、ちゃんと紹介をメモれなくてフルネームが分かりません。あの日初めてお会いしたので)(10/7修正しました)が、フランスの助成金制度など海外の事情を語る有意義な情報を語ってくれた。要するに日本と違い、海外では文化にお金を払うことが当たり前なのである。客がゼロだろうがなんだろうがギャランティは支払われる。せめてイベントの主催者が興味を持って好きで呼んでくれているならまだ救いがあるが、単に助成金欲しさで呼びやすいアーティストを呼んでいるだけということもある。こういった事情さえも知らない人は多いと思う。助成金がおりることは良いことだけではない。申請さえおりれば、ぜんぜん働かなくても生きていけるのだから、志の低いアーティストは切磋琢磨しない。国はそれも織り込み済みで、その中で100年に一人でも輝く人が現れればいいという未来へむけた投資なのだから。(追記:助成金の話は国や個人により事情がそれぞれ違うので一概にもここで書いたことだけが真実ではない。こちら→生ループ(3) - 日日≒日キもご参照ください)

一方、日本では規模の大きいダンスや演劇には助成金がおりるが、今回話題にされた音楽家たちにはおりにくいようになっている。もしかすると、演劇やダンスに注目が集まるのは、助成金の存在があるせいなのかもしれない。この分野に関しては、よく知らないのでいずれ誰かに話を聞いてみたいと思っている。助成金がおりないのは、今にはじまったことではない。だからといって、日本のレベルが低いのかといえばそんなことはない。私も含め多くのミュージシャンが海外で演奏できるのは、その証拠だ。こうした音楽が海外で公演できるということを広めたのは90年代の大友良英氏の功績が大きい。音楽情報誌『サウンド&レコーディング・マガジン』(リットーミュージック)にて、大友さんが連載していた「エスカリカリックワールド」には、「95年には世界49都市114回のコンサートをこなしていた」との記述がある。実際にトークで伺ったこともあるが、大友さんは当時の収入のほとんどは海外での得ていたそうだ。ほかにもボアダムスをはじめとする関西のミュージシャンはかなり海外ツアーを行っていた。90年代のボアダムスの活躍は特筆すべきものがあった。彼らにあこがれる若者も多く、その音楽は広く注目されていた。TVの出演も多かったし。

90年代はまだまだバブルの余波もあり、今よりほがらかであった。サバイブしなくても、活路はあったし、変わったものに対して世間は優しかった。サブカル全盛の時代でもある。00年代に入り、それらは価値のないもの(価値があるから良いと価値観。ちょっとわかりにくいかな?)というレッテルが貼られ、一度、徹底的に駆逐される。それでも、残り、表現も変えずに続けている人もいる。そんなことは、誰でも真似できるものではない。何の社会的な評価も金銭も期待せずに続けることは、心を徐々に疲弊させていくだろう。

では、80年代はどうだったか。文化や芸術活動に対する企業の支援、いわゆるメセナといわれるものをどこも活発に行っていた。その中でも、セゾン、西武文化と呼ばれる西武百貨店は先鋭的な表現とコマーシャルと結びつけた。日本の広告が海外とはまったく違うクオリティの高さを誇ったのはこの時期、企業が莫大な金を広告に投資していたせいだ。人々は広告の中に理想や夢を見た。また、それにも関連するが、ニューアカデミズムという思想の運動である。難解なものに挑むということが一種のトレンドだったのだ。セゾン文化に関しては、元セゾングループ辻井喬堤清二)、上野千鶴子両氏の『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)、ニューアカからゼロ年代におけるゼロアカ(アカデミックなものをゼロにする、ゼロになったとする東浩紀氏の主張)への変遷については、佐々木敦氏の『ニッポンの思想』(講談社現代新書)が分かりやすく解説しているので興味のある人は参考にしてほしい。

こうした背景の中で、日本の文化・芸術は広告というかたちで日常に浸透していた。もうちょっと付け加えるとSFブームの話などもあるんだけど、説明するときりがないので割愛する。興味がある人は私がWebDICEに連載している『マンガ漂流者』(http://www.webdice.jp/dice/series/15/)の鳩山郁子氏やタナカカツキ氏について書いている回を参考にしてほしい。

話を戻すと、この80年代の反動で、90年代に入るとアカデミックなものテクニカルなものに対するカウンターとして、権威のないもの、頭の悪いもの、価値のないものを面白がるという楽しみ方が生まれる。誰も知らないものを知っていること、マイナーなものを愛でるのことがかっこいいという価値観だ。昭和は遠くなりけり。今ではそういうものに価値はない=駄作というのが一般的だろう。しかし、本来はメジャーなものにマイナーなものにもダメなものはある。価値なんてものは時代とともに変化していく流動的なものだ。脊髄反射的に取捨選択を急ぐあまり、芸術とか文化とかいう曖昧なものを救おうとしても、ほとんどが零れ落ちていく。97年の「Windows97」の登場により、急速に普及したインターネットによって、このムードはさらに広がり、2ちゃんねるを代表する匿名掲示板、ブログの登場により、個人がメディアを持つということが容易になったことで、正しい情報というものが意味をなさなくなった。00年代に生きた私たちは、個人が信じたい情報を勝手に信じるという状況を目の当たりにする。ほかにも、出版不況によって、出版物が著しくクオリティを下げた、編集された作品に対する騙されたくない!という拒否反応など問題点にあげることができるだろう。あと、オウム真理教の話とか。と、書きつつこんなしょうもない現状までの過程をさも得意気に書いているみたいな自分にいささか嫌気がさすが、それさえも知らない、意識したことがない人もいるので、バカじゃないかというくらい紙数を割いておくことにする。そんなことは承知だという人は読み飛ばしてください。

さて、では、私たちが生きる10年代とは? はたして、分からないものは価値のないもの? 誰も必要としていないのだろうか? 次回のエントリーではまた、討論会の内容を振り返り、核心に触れていきたい。なぜだか、長期連載の予感がしてきたが、これも運命である。私がこうした文章を書く気になったのは、今回のイベントのおかげなので、読んでおもしろいと思った人は、ループラインに感謝しよう!

追記(2010.10.6):今回のエントリーについてそんなこと知ってるYO!という感想を見かけた。ここで書いているのはそれを知らない人のために、まず、どういう認識があったのかを記したものなので、分かっている人にとっては、あまり有益な情報でないのは承知している。そういう方は読み飛ばしてもらってかまわない。ここで丁寧に説明したのは、わからない人を思ってのこと。乱暴にすべて切り捨て、わかっている人だけがわかれば良いという態度は、シーンの閉塞につながる。私はそうした態度が嫌いなだけだ。自分がそうしたくないだけである。