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吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

そうしないと、前に進めない

 モノを書いている人として、何か書かなくてはという気持ちはあった。しかし、実際には何も書けなかった。今、一ヶ月ちょっと過ぎて、やっと頭が回ってきた。だから今、書けている。

 その間、何をしていたのかといえば、書きたいという欲求が生まれるのを待っていたような気がする。3月11日を境に自分の中で言葉の意味が崩壊したような感覚があり、私はこのまま文筆業を廃業し、何も発言しない一生を選ぶのかなとも思った。文字通り、言葉にならない、言葉がみつからない状態。震災にあわれた方のことを思えば胸が痛むし、これからどうするのか、何ができるのかと考えると途方に暮れる。

 何件かの予定がキャンセルになった。これは作り手の人ならよく分かってもらえるかもしれないが、震災後の不謹慎や自粛せよという呪いのような言葉は、自分がやってきたこれまでを否定されているような感覚に陥らせた。
 実際に震災直後、娯楽をはじめとする文化など無力であったし、ライフラインが確保されていなければ、伝えようにも伝える手段もない。頭では無力感に苛まれる必要などないというのは分かっていても状況を鑑みればそうも呑気なことを言ってられないのではないかという思いが頭を過ぎる。無根拠で無邪気な言葉を信じられるほど楽観的にはどうしてもなれないでいた。松山千春が「何もないやつは元気出せ」と言っていて、いいこと言うなァと思ったが、まさに出す元気さえも枯渇していたらどうするのかな?これがいわゆるエア被災の恐ろしさか。ほんとにあった怖い話。おまえは絶望する資格はない。もっと不幸な人がいるのだから我慢しろと幻聴が聞こえてくる。そこに下とか上とか見出して、ふんばりやらがんばりやらを強要されてる感じ。真綿で首を絞められてるみたいなふんわりとした圧迫感。さて、その終わりはどこに?まったく見えない!恐ろしいことに。だって、まだ、何も解決していない。非日常は続いている。

 そもそも自分の音楽や文章が誰かの救えるほどの力があるのだろうか?また、自分はそんな力をほしいと思っているのだろうか?自問自答してみても答えは出ない。出るわけがない。だって、無力だからできることを愛しているのに、何かを救おうとかおこがましい。何かを感じるのは受け手の自由だ。作り手が救われてほしいと祈り、願うまではいいが、それから先を強要するのは違うのではないか。たとえば、たとえば、たとえばといろんな可能性が現れては消える。何かを自分の意思で決定できない。何かを選べない。それは重く暗くのしかかる不自由さだ。

 被災状況などまだ明らかになっていない時期に早くも、応援をうたって何かを作り出す人たちがいた。泉谷しげるみたいに、売名行為だと割り切る覚悟があるならいいけれど、その多くは、脊髄反射的にしか見えず、浅はかで、ただの自己満足なだけじゃないかと、思えてしまった。その「応援」は、まだ、届くべきところに届けられない。停電しているんだから。何のための応援なんだろうと考え込んでしまう。自分が好きな作り手が参加しているのを見て、さらに複雑な気持ちは募る。そして、そこに書き添えられる「がんばれ」という言葉にも過剰に反応してしまう。もうすでに、被災地の人たちは十分、がんばっているのだから、がんばれなんて言うのは、酷じゃないのか。そういった逡巡を経た上で、その言葉は投げ出されているのだろうか。ただ、条件反射で、ただ、何かをしたいけれど、何もできないから回りな気持ちで、思考を停止して、依頼されるままに、やっているだけじゃないのだろうか。何もできない自分の無力感を正当化するためにチャリティに参加しているだけじゃないのだろうか。それって、デマを広める心理に似てないか。どういう団体のどういう思想が背景にあるのか調べずにノリでデモに参加するのと同じじゃないのか。いや、待て。それの何が悪いのだろうか。自己満足なら少なくとも当人は救われている。そんな細かいことまでも許せなくなってるのって、どうなの?と疑問に感じること自体、不謹慎だと萎縮することとなんら変わりもないし、通常の自分の思考回路ではない。異常な状態なのではないか、ということも分かっている。だが、考えはまとまらない。何故だ。それもこれもわかるし、でも、なんだか許せないような気持ちにもなるし、いつもならそこまで立ち入らないから、傷つくこともないし、知らないですんでいた。ただ、知らないですんでいただけで、それはずっとそこにあったわけだが。まるで原発のように。いや、そういう言い方は無神経じゃないのか。無神経って、不謹慎厨乙。なにこのどうどう巡り!

 ずっと、頭の中に、「ロード中」の文字が浮かんでいて、カーソルはくるくる回ってた。いわゆる処理落ちという状態。決定できない。答えを見つけられない。納得できない。その状態が私から論理的思考を奪っていく。だから、文章なんて書けるわけがない。散文なら書けるかもしれないが、誰かに伝えることを目的とした言葉が分裂して、消えていく。泡のように。電話もできず、メールも書けず、相談もできず、言い淀んでいく。

 くだらないことだらけの言葉にあふれていたTwitterのTLが、一変した。デマの温床になった。拡散希望。RT希望。確かなソースに当たらないまま、RTすることで何かをした気になってしまう。それは何かをしたい、誰かを助けたいという善意でできていて、だからこそ、タチが悪いのだということも知っていた。チェーンメールの心理について、かつて考え抜いたことがあるからだ。人の善意を踏みにじって、いるのだ。実際に、脊髄反射的に即座に動くことによって、救われたものがあったかもしれない。ひとつでもあるなら、その行為を批判できるのか?躊躇っては遅すぎる。でも、それは本当にそうだったのかどうかなんて検証できない。わからない。正しさを推し量れない。同じような経験をしたことはない。はじめてなのだ。だから、過去に照らし合わせて、答えを導けない。だから、不安になるのだ。

 みんな殺気だって苛立っていた。そして、それをみるのがつらくなった。今まで滅多にしたことがなかったが、何人かフォローを外した。スルーできていたものやことが見過ごせなくなっている自分がいた。絶対、許せない。そんな頭の固さが露呈してくる。そんなの絶対おかしいよ。情報収集などは金髪のあの人に任せておいて、お願いだから自分の日常に戻って。いつものとおりに、くだらない言葉をツイートしていてくれたほうが見てるほうは、ずっと安心できる。不確かで不安なリツイートの束がどっと押し寄せてくる。前方にも後方にも絶望しかない感じがしてくる。逃げろ。見るな。知るな。影響されるな。と、言葉が生まれて消える。磨耗していく。

 善人の功罪。

 そういう言葉が浮かんだが、いや、それはどうなのと、待ったがかかる。口を噤め。誰かを傷つけたくないのなら。何もしないほうがずっといい。ずっといいに決まってる。誰かを傷つける覚悟なんて、自分にはないんでしょ?自問自答。続く、続く……。

 誰かの善意を否定したくない。けれど、その善意で押しつぶされることもあるのかも。そうかもしれない。

 意外なことに一番、自分の心がざわめいたのはこうした、善意による行動の数々であった。特に被害の少なかった東京の人たちが一番、騒いでいるように見えたからだ。情弱の人に情強な自分が正しい情報を伝えなくてはという使命感。当事者がほったらかしにされて、勝手に悲観して、何かしなきゃ何かしたい何をしようと慌てている。私たちにできることは、限られているのに。限られた中の一つを無駄にしているような気がして、もったいないと感じてしまい、それは次第に怒りに変わる。けれどその怒りはお門違いだと気づけ。もちろん、怒りを感じる人の気持ちもわかる。自分の中にも同じような感情が芽生えたから。それを否定するのか。否定できるのか。わからない。いや、できないし、したくない。否定などできるわけがない。そう感じてしまう、感じてしまったことは事実なのだから。いまさら変えられないだろう。それは自分のもうひとつの姿。そうなってしまったかもしれない可能性。誰かが代わりに受け止めてくれた。そういう考え方はできないだろうか。

 テレビは早々に消した。

 テレビを見続ける自分が変だと気がついたから。特に震災数日のテレビはACのCMだらけで、ずっと、緊急地震速報のアラームがひっきりなしに鳴り続けていた。悲惨な状況を繰り返し映し出した。誰かの悲鳴が耳に残った。不安にならないほうがおかしいだろう。気が変にならない自信はまるでない。ACのCMを見ながら、これはきっと、ACに苦情くるんだろうな。不謹慎だとかなんとか。ACのCMって、スポンサーがつかないときに流すやつだし、出演者も別にギャラもらってやってるわけじゃないんだけど、知らない人も多いだろうから非難されそうだな。と思っていたが、まさにそのとおりになっていった。想像どうりすぎる。地震でたいへんなときに何をという大義名分で気に入らないものが一掃されていく。これは怖い。

 とはいえ、まったくTVをみないわけにもいかない。すると、聞こえてくるがんばろうの合唱が。がんばろう、がんばろう。残った命だから大切にしよう。死んだ人の分までがんばろう。そう語る被災された方が自分に投げかける言葉が励みにもなるだろうし、一方で、追い詰めないのだろうかと心配になる。余計なお世話だ。自殺してしまう人の気持ちも考える。彼らは非難されるべきなのか。自暴自棄になる人の気持ちも考える。彼らは非難されるべきなのか。いや、もちろんダメだろう。どんな背景があったとしても、犯罪OKと推奨するのは間違っている。それはダメだ。どんな言い訳があろうとも罪は罪だ。それを許せば、理性をなくしたもの勝ちになってしまう。だとしたら、理性を保ち続けていてくれる人をもっと労わるべきじゃないのか。どうすれば伝わるのだろう。よくがんばった。そう言いたい。

 「がんばれ日本」も「あなたは一人じゃない」も「繋がろう日本」も「一つになろう日本」という言葉が最高に気持ち悪い。がんばれ日本って、日本ってがんばるもの?あなたは一人じゃないって、私は一人ですよ。何人もいたら気持ち悪い。繋がろう日本って、繋がってるでしょ日本。一つになろう日本って、もともと一つしかないよ!日本なんて。なんという頭の悪いスローガン。もうちょっと考えろ、広告の人。こんなときこそ、広告ができることがあるはずだ。がんばらなきゃいけないのはおまえのほうだ。イカしたキャッチコピーを、言葉が無意味に思えるほどのヴィジュアルを出してほしいよ。まったくだ。仕事をまっとうしろ。やれることをやれる人がやればいい。全力で。誰かのためにと思う善意はこういうときに発動すればいいんじゃないのか。

 何かが変わらないほうがおかしい。何かを変えなくてはおかしい。何も感じないでいるほうがおかしい。この異常な状態が続けば、いつか、いつものように日常になるのだろうか。慣れて気にしなくなるほうが簡単だ。見ないふりをして、考えないことを選択するほうがずっと楽だ。誰かの意見に流されるほうが気が楽だ。そうやって、危機感が鈍くなり、慣れていく自分が怖い。怖いことだらけだ。原発の事故が日常であってはならない。

 原発反対はわかる。もちろん、反対なのだ。それは宝島少女だったから、原発反対=サブカルチャーという刷り込み。原発メインカルチャーだからな。忌むべき!忌むべき!中学生の子どもだったから、何も分からず調べず、今みたいにネットなんかないから、調べようもなくファッション反原発チェルノブイリの事故もあったしね。学校でも地震が起きたら原発やべーみたいな授業あったし。東海地方はまだ起きてもないのにあらかじめ名前まで決定している、東海大地震の恐怖に怯えていたから。三上晴子の作品とか、クラフトワークとか、ピンクフロイドの原子心母とか。

 けれど、どうして、原子力発電所が作られたのかを中学生の自分は、知ることはなかった。ほんとうは、原発を誘致したときに得られるお金と、原子力ビジネスの話を抜きにして語れないことだ。表面だけ見て反対するのは簡単だが、根本の問題を知らずにただ、反対するのでは何の解決にもならない。同じことが繰り返されるのは目に見えている。しかし、自分は専門家ではない。いまから、勉強して知るには遅すぎる。知らないから判断を見誤っている。誰かの意見を仰ぎたく思う。誰かの言葉を信望したくなる。そのほうが楽だから。でも、この世の中には圧倒的な正しさなんてないんだよね。そんなふうに安心させてくれるような魔法みたいな選択はないんだよ。

 でも、節電でなんとかなるとかいうなら、電気なんていらないよ。

 誰か算出して!って、Yahoo!のトップには電気予報。いいじゃん。こういうのって、面白いし、自分の努力が可視化されるのは、励みにもなるだろう。そもそも、日本は明るすぎる。もう、誰もが指摘しているとは思うが。ヨーロッパなんてもっと暗いよ。だから、節電で夕方から夜にかけての、たそがれの時間が好きになった。海外行って戻ってくると、日本の無駄に明るいごちゃごちゃした町並みに疲弊したが、それが減ったのは良かった。もっと暗くてもいいけれど。とはいえ、あまりに暗すぎると犯罪率が高くなる可能性があるのかも知れないけれど。だから、決して、それがすべての正しさの答えだと言い切れない。何かの犠牲はつきものだから。犠牲のない選択はないのだから。そんなことはわかっている。わかった上で折り合いをつけないと。つけられる折り合いを。

 選択なんでできない。選びきれない。それが、文章を書けなくなった理由だろうと自己分析。文章を書くことは、選択の連続だから。保留し続けて、目をそらし続けていられればどんなに楽だろうか。でも、今はもうこれを書いている。自分はなぜ、文章を書くのか。納得するためだ。自分自身の考えを客観視するためだ。アウトプットしないと、し続けていないと前に進めない。ごちゃごちゃしたままの考えが常に頭の中にあり続けている状態はしんどい。暫定的にでも文字にして、今の考えを固定させてしまいたい。考え続けている状態から開放されたい。だから、文章を私は書くのだと、気がつく。文章を書けなかった状態が異常だったのだと、気がつく。いったい誰のためにって、まず、自分のためにだったのだ。誰かに伝えたい、その誰かとはまず、自分。その自分を通過して、誰かに届けば、届いてもいいなと、淡い期待をするくらいの気分。

 そういった、確認作業をしていたらあっという間に一ヶ月は過ぎたな。それが私のみてきた3月11日以降の出来事。あまりにも取るに足りない、幸福な悩み。弱音を吐くのも躊躇われる、自己中心的な何か。でも、それも一つの真実ではあるわけで、それをなかったことにはできない。決意をすると決める。そんなけじめのお話でした。とりあえずは、それでいいと、自分を甘やかそう。がんばりすぎないためにもね。許す余裕がほしい。できた余力は、必ず困っている誰かのために使うと約束する。