読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

演技とは何か。

Text

 演劇をふたたび観るようになって、ずっと考えていることがある。演技はなぜ必要なのかということだ。

 演技が巧いとは何か。私は演技をするということをずっと悪いことだと思っていた。演じること。それは何かを騙すことだ。演じるというのはほんらいの自分ではないものになることだ。自分以外になることは必要なのだろうか。自分が自分らしくあるだけで十分だと思っていた。私は私であるという以外を経験する理由がわからなかった。それはそのまま、自分の表現において、頑なにオリジナリティを追求する潔癖さに通じるのだと気がついたのだ。オリジナリティって、なんなんだろう。そんなものはまやかしである。新しいものはつねに何かに影響され、その反動で生まれてくる。何にも影響されないものなどない。そんなことは頭ではわかっているのだけれど、理想を追求すればするほど、私はずいぶん愚かになる。

 まず、演技するときの感情が過剰になり、身振り手振りが大げさになることがすごく苦手。自己主張の激しい人間をみると怖いという気持ちになる。なりふりかまわず自分の主張を押し付けてくるのは暴力とかわりない。不機嫌さを隠さず、子どものように振る舞い、自分のやりたいことを周りに要求する。無言の圧力。ようするに演技とは自分以外の誰かを自分の好みに誘導する手段なのだ。演出家の仕事。

 アイコンタクトをするのも恥ずかしい。他人と同じ感情を共有するのが気持ち悪い。そういう感覚が強かったから、自分はああいう表現を好み、演奏するのだと思う。そこが自分の限界だった。他人と自分は違うけれど、それでもと歩み寄ること、それ自体が美しいと頭ではわかっているし、文章にも書くことができる。文字を書くのは好きだ。いくらでも耽溺していられる。しかし、自分の思考を微調整して、理想に近づいていく作業だけでは、物事はわかったことにはならない。そして、他人と自分のどこがちがい、なにが同じなのか。それを知ることができるのが相手を真似ることだ。写経には意味がある。誰かが書いた言葉をもう一度、自分の手でタイプすると相手の考えがなじむように、人の動きを真似ることで相手の気持ちがすごくわかるということがここ数年の大発見だった。

 なぜ、相手の気持ちをわからなければならないのか。これはチームで仕事をするようになってはじめて必要だとわかった。今まではずっと、一人で孤独な表現ばかりしていた私には相手の気持ちをわかる必要などない。もっぱら目で読む言葉によるコミュニケーションばかりしていた。インターネットで。メールで仕事のやり取りをして、書いて、メールして終わり。自己完結したなかで作品を作っていく。

 これに飽きたのだ。

 耳があるということに気づく。声をかける。私のライブのように言葉以前の叫びだけではない。声とは何か。まずはじめに言葉があった。誰かの言葉を自分で声に出してよむ。朗読なんてやりたくなかった。だってかっこわるいじゃん。かっこいいことだけをやりたいと思っていた? 物語をつむぐのも恥ずかしい。自分の感情が他人にバレたくないから? 自分の感情がみにくい、みっともないって思っているから?

 人の動きを真似する、同じ言葉を使う。これだけで、ずいぶん、いろんなことがわかってくる。書かれた文字以外のコミュニケーションにいまはすごく興味がある。だから、ブログを書いていなかったのだ。Twitterはてきとうにやってますけど。1年以上、かなり意識的に動きとは何かを考えていた。動きがへんな人は面白い。また面白い人は動きがへんだ。動きながらセリフを言い、人に説明することで物語がぐっとわかりやすくなる。書かれた文章では伝わるのが遅すぎる。たんじゅんな自分の思いを相手に伝えたいだけなら、演じたほうが早い。こうして、自分以外の誰かとひとつの物語を作ること、チームでプレイしていくことから学んでいった。相手が自分を慮って、行動してくれている。そのことに無自覚だった自分は盲目だったのだろう。

 それは自分がものすごく運動神経悪いのとリズム感がまったくないせいなんですけど!わかってるんですけど!体は動かしてると動くようになってくる。動けるようになってくると身体はおしゃべりになる。そういうことが快感に変わっていく。

 身体性が新しい表現に広がりをもたらしてくれた。

 だから、今は無性に文章が書きたくなっている。