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吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

声を発することがもつ暴力性、陵辱性と、声を人前にさらすことへの羞恥という両極性も、それらのことと無関係ではあるまい。

 声の生命は、発し終えられた瞬間に、何の痕跡ものこさずに消えてしまうところにある。声を発することが、イヴェントになりうるのは、そのためだ。ことばは元来声であり、文字はことばから声を息を消し去ったから、空間に固定されて持続性を獲得したのだ。
 声を発することは、“呼ぶ”ことと深くかかわっている。呼ぶとは、訴えることであり、問うことであり、思慕(した)うことだ。あるいは、誇示し、たたえ、ふれ、名づけ、呼びかえすことだ。神に向かって、王に向かって、下部に向かって、恋する者に向かって、生まれ出た者に向かって、死者に向かって。
 声をだす、かける、たてる、あげる、あらげる、はげます、おとす、しぼる、ふるわす、しのばせる……。声は人間の生理の、深くやわらかな部分に直結しているらしい。そして声を発することは、声を発するという行為を支える状況性と、声を発する者の現前性と、声の向けられた相手の特定性とをまきぞえにして成り立っている。声は私の体内から出るものでありながら、口から発せられたあとでは他人に共有されてしまう。声を発することがもつ暴力性、陵辱性と、声を人前にさらすことへの羞恥という両極性も、それらのことと無関係ではあるまい。(川田順造『聲』「権力の声、戯れる声」より)