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日常からの逃避とわたしと世界の約束

日記

 母さん、逃避です! 逃避だよ!全員集合!!!とおいとおひとおひとおひ! 熱を帯びた皮膚の略ですか。頭皮の当否ですか。問う日ですか。それとも全部ですか。ひりつくような皮膚のただれはアスファルトの足裏よりも熱くはなかった。冬に夏のことを考えてもまったく夏のことを思い出せずにいます。この数ヶ月後にあほみたいに暑くなって、空とかアホみたいに青くなって、今だって青いけれど、冬の空気のきれいななかでの透明な青さと夏の頭の悪い青さは透明度がぜんぜんちがって、クレヨンで塗りつぶした青と、プレパラートに透かして見上げた空の青さが違うように、空気の質だって色の要素だと思うのだ。まあ、わたしがわちゃわちゃしている理由は火をみるよりも明らかでプレッシャーからのプレッシャーへの逃避であり、目の前のやるべきこと、TO DOに書き連ねながら、華麗にスルーしていることが原因なわけで、まあこういう態度や気分は生きていてなんどもなんども味わっているし、そうした焦燥感は喉元過ぎればなんとやらであり、過ぎ去ったあとになんかいい思い出になっていたりするし、そうやって、誰かに期待され、求められている証拠なのだから、それはそれでうれしいとか、誰かを困らせたり、待たせたりすることで、自分の価値を推し量ったりしてるんじゃないのか、とか、同時に思ったり、意地の悪い自分の性分に気づいたり、いやそうじゃなくて、必死でもこれしかできない、何かを試そうとかしていないんだけどなあ、とか言い訳じみた言葉がいくつも浮かびながら誤魔化すように日記を書いており、それはまったくなんの解決にもならないのはわかっているし、でも勝手に手がものすごいスピードでキーボードを叩いており、これはわたしが考えて書いているのか誰かに書かされているのかそれともそれは同時に起こっていることなのかわからなくなっていて、わからないまま、理解だけはしている状態がいまだ。わたしはこのあと近所の魚屋に行き、きのうから、水の中にどぶーん、って浸ってる、昆布の出汁を使って、ていねいに掃除をした白子を水から煮立たせ、自ら煮立たせ、水と己は鏡か、反響した自分の姿を水面に見るのか、煮立った自分を見直せるのか、わからないまま台所に立ち尽くして、豆腐も入れて、白鍋(白子と豆腐を塩で食べる)をつつきながら、焼酎をぐいと呑み干す未来が見えている。箸の上でつるつるとすべる白いすべらかななにか。羊の脳味噌にも似ている白い子の熱いなにか。口の中でぱちんとはじけて、広がるクリーミー。わたしは冬になればこればかり食べていたい。白はことしのラッキーカラーらしいですよ。わたしはそんな星占いを信じでみるほど、気持ちが穏やかだった。それは今月のはじめのはなし。それからずっと、きもちはきもちわるいくらいに穏やかだ。世界中が全部敵だと思っていたわたしが拠り所にしていたのはたぶん、ホワイトソース。食べられない、口に入れたくないよーって、思っても食べなければいけない、食べなければ、世界はわたしを受け入れてくれないのだーーーーって、脅されて口の中にぶち込まれた白い飯やら茶色いおかずやらで、わたしは黙って嘔吐した。次の瞬間、記憶は飛んでいて、幼稚園の水飲み場でわたしの足を洗っている、手ばかりを覚えていて、もう、無理矢理食べさしたりしないからと、わたしに謝っているような声を、たぶん聞いたのだと思う。そのときの空が何色だったのか今のわたしは思い出せずにいる。

 グラタンが好物だと言った。それはマカロニとホワイトソースと玉ねぎと鶏肉とチーズで、それはすべて火をとおしさえすれば、白くなる。クリィーミーマミの優ちゃんの好物はグラタンだと書いてあったが、ほかの本では違うと書いてあった。けっきょくは、クレープが好きなのか、グラタンが好きなのか、気持ちは揺れたままだ。お父さんとお母さんがクレープ屋だから、バターシュガーが好きだといったのか。いや、まて、まてよ? バターシュガーって、それもすべてが白色だ。焦げたクレープ生地を白といわず、茶色だと言い切るのなら間違いかもしれないが、わたしは透明と白色に焦がれている。クレープをよく食べていたのは小中学生の頃で、名古屋の地下街を歩き、そのまま歩ききると右側にレコード屋があった先に、噴水があって、その先に、矢場町の出口があった気がする。階段を上れば、パルコで。GOMESをもらうためだけにもそこには立ち寄らなければならなかった。父親と約束したのはそこから少し歩く。ジャズ喫茶YURIから一番近い、地下にある喫茶店で、いまはもう、寿やだか、山本屋本店の味噌煮込みうどん屋らしかった。ロッテリアが角にあったことなんて、みんな忘れている。そこには、小学三年生のわたしが封印されているし、母親のどうすればよかったのかわからないまま、歩き続け、誰にも相談せず、そのことで、突拍子もない、奇異な行動がなぞられた場所でもあった。わたしはその角のレコード屋で、町蔵のレコードに一瞥しながら、有頂天のCDを買ったのだが、クラフトワークのドイツ盤のレコードは高かったけれど、いまみたいにお酒や食べ物に使うお金を節約して、キャラメル一つでふつか間とか、電車賃節約で4時間歩くとか、メロンパンやクリームパンで、1日終えて、でも、お腹なんか空かなかったし、なにか食べたいとも思った記憶がまるでない。だから、わたしは不健康に痩せていたし、貧血で倒れてしまっていたんだ。それがかっこいいみたいに思っていたし。あれは中二女子病だ。他人からみたらわたしは語らなかったし、言葉にもしなかったし、誰ともつるまなかったし、親密にもならなかった。親密よりも一投速で、超えられる関係は違う次元で、反芻してみても、思い返してみても、いまでもずっと他人みたいで、なんであんなことができたのか、それが自分だったのか、他人が撮影したビデオテープみたいで、再生していても、そこに自分が生きている感じがまったくしない。あれは前世で、わたしのよくない行いはもうとうに砕け散っているのだろうと思うけれど、生々しく思い出す、中学生や小学生や幼稚園のわたしに欲情した体温。でも、田舎で、自転車の後ろに乗せられて何処までも連れて行ってくれた。あの、お兄さんはいま、どうしているのかなとか、思う。寸でのところで、諦めて手をつないだ別れの夕暮れ。それらは今のわたしではなく、かつてのわたしであって、その過去の自分は修正されたわたしである。いまのわたしが巻き戻して、もう一度繰り返す、わたしのすがたは、わたしではないわたしの成れの果てであり、それは、再生可能な、繰り返し誰かに見られることを良しとした自分の、認められたかったわたしのすがただろう。わたしがわたしに成りにいくのにはいくつもの困難が待ち構えている。おいしいごはん。おいしい食事。白く、プレパラートの中で、わたしはそれに名前をつけたい。