吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ICC三昧

ICCは今月えらいこっちゃになっている。とゆーのもサウンド・アート展がやっていてそれに付随するイヴェントが目白押しなんである。サウンド・アートの今を探るべくすべてのイヴェントを網羅しようと思っていたが、思わぬところで最凶男の妨害に遭い、NOTOの出た回を見逃した。
 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!
 とさけんだところでどうにもならない。
 とりあえず、一日目のデビット・トゥープとマーク・イーストレーのコラボレーションと二日目のハウスウォルフ、ピーター・ハグダルは観れた。ブランドンさんは急病のため出演ならず。まあ、ミュージアムで観ているし、代わりにブランドンさんのCDがかかったのでまあ、良い。
 トゥープ&マークのコラボは快楽よりの音でもコンセプト重視の冷ややかな音でもなく、エンターテーメントで楽しめた。バイオハザードの犬の声みたいのやら、ホラーじみた跫音の後に、静かに音がよこたへた。それは木の葉のまわりをくるくるまわる積み木の音で、恐るべき催眠効果があり、いつのまにか夢現になり、覚醒した意識を放ったまま、私はまどろんでしまっていた。そうゆう心地よい音であった。
 佐々木あっちーの絶妙インタビューの前に詩的なテキストが読み上げられた。それは淡くなんとなく切ないテキストで独自の美学を感じ、ロマンティック爺ぶりを余すことなく発揮していた。
 ボケかけのじいさんの戯言はパフォーマンスや作品同様、夢の中の出来事みたいで曖昧模糊として不確かだった。私はこの日の早朝、たった1時間だけ眠り、夢見た夢を思い出すのであった。
 それは高速のオープンカーに乗り、すれ違いざまの死に神に首を屠られるという不条理な夢だったのだが、映像がこれでもかという程、馬鹿みたいにキレイだった。しかも、その同じフィルムがループしていて、何度も何度も繰り返し見せられるのだ。5、6回繰り返したところで流石に目が覚めたが、ほんに奇妙で今までに観たこともない美しい悪夢だった。

わたしはわたしの王女様である そしてその民である(大島弓子「8月に生まれる子供」より)
 ピーター・ハグダルは以前の展示作品の解説をし、ハウスウォルフは自分のレコードをかけながら、リリースされたかもしくは録音された年代を白板に書いていた。どうでもいいことだがICCの館内放送でカール・ミカエル・フォン・ハウスウォルフの名前をどこで息継ぎをすればいいのか困惑ぎみに呼んでいた。2度も噛んでいたので思わず吹き出した。でも、ここで名前を打ってみてその気持ちがほんの少しだけわかった気になった。
 低音でスピーカーがぴりぴりいう、意地の悪いノイズが四方に振り当てられたスピーカーから立体音響気味に流れて来る。フェードアウトして次の場面。遠雷のよな音が鳴り、あとは漫然と曇って行き、晴れ間が覗くとゆーよーな風景を思いつつ、聴いていた。
 あっちの質疑応答のカールの言葉を聞いていたらなんだかWORDの事を思い出した。ってそりゃ前と同じ切り替え方じゃん。まあいい。
 と、言うのもWORDったらYAHOO!のオマージュをやめ、元のデザインに戻したのだ。そして、そこには今回の顛末についてが綴られていた。
 またもやゆうたに意訳(それ即ち、私の英語力のなさ)してもらった。
 
今回のWORDの件でものすごく反響があった。ある人は驚嘆し、ある人は喜び、ある人は落胆し、ある人はふざけているのか?と怒ったそうだ。
 けれどWORDはふざけてYAHOO!の模倣したわけではなく、webデザインとして優れている事を言いたかった。GAPのデザインを例に挙げたのも同意である。彼らは奇をてらう事ばかりを意識しすぎて、シンプルでなくなって行くデザインの傾向に対して警鐘を鳴らす為に、てっとりばやく、且つ、効果的な方法としてあのYAHOO!の模倣と宣言をひねり出した確信犯だったのだ。
 と、ゆーよなわけであった。wordはエライ!カッコイイ!真の意味で。それにその衝撃や効果はてきめんだったと思う。なんてったってあのwebsiteは世界中からアクセスがあるwebデザインの大御所だもんね。そこが、そうゆうアクションをしたということに意味があるし、意義もある。クリティカルヒット
 で、まーまた、話を戻してハウスウォルフさんの事だけど、彼の言葉に「僕の言う事は本当の事もあるし、冗談や、嘘もある。だけど、本当に僕の言いたいことを理解していればそれがユーモアだという事がわかる。杞憂するのはその言葉の意味を知ろうともせずに受け取る姿勢だ。」と。私もそれは良くわかるし、やり方としてしかりだと思う。何かを表現する時に馬鹿正直にありのままの言葉を連ねるだけが能じゃない。やり方や方法はいろいろあって一番、相手にインパクトがあって伝わる方法や自分にとって表現しやすいやり方を選ばなくてはイケナイ。また、その方法を常に模索して行かなくてはならないんじゃないか、と思っていたので思わず膝を打った。
 それからこの上記の大島弓子の引用だが、ハウスウォルフの架空の国を建国するというプロジェクトの話を聞いていて思い出した。
 ハウスウォルフは宗教批判をした上でこう提唱した・・・・それぞれの人が自分で自分の国を作り、自分に責任を持てば差別は起こらない・・・とか・・・・なんでもジャンルで分ける事は可能性を狭める。私はどのジャンルであっても先入観を持たずにおもしろそうなところには飛び込むようにしている。そして失敗したのならそこから学べばよいのだ・・・とゆーよーな事を言っていた。
 私はハウスウォルフのしている「死者の声や地球外生物とコンタクトするプロジェクト」への答えがそれなんだなと思った。そうこれは、水木しげるである。近代宗教の盲信し、依存する信者へのアンチテーゼだと言えなくはないか。(実際には宗教やらなんやらに依存する事で保たれている均衡もあるから一概にも断言は出来ないんだけど、私はそうゆう考え方の方がシンプルで好きだし、何かのせいにしなくて自己責任において行動することで人は成長するものだと思うし、そうしないといろんな実感というのは沸いてこないので面白くないと思う)。そう思うとハウスウォルフの言うことは矛盾なく、一本の線で結ばれていてこぎみよいし、わかりやすかった。