吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

レットウカンとトンガリキッズの狭間で

雨宮まみさんの8/15の日記より
http://www.fastwave.gr.jp/diarysrv/addict/200308b.html#20030815

私は中学、高校ぐらいの時、そんな人間だった。個性的、変わってる。いわゆる「不思議ちゃん」みたいな扱いをされていた。変な服 装をして、変な知識をひけらかし、変な人だと思われていた。

でも、自分が変な人間ではないことは、わかっていた。個性的と言 われても、自分が個性的でない、ただのつまらない人間であるという劣等感は抜けなかった。

人の文章に共感することなんてめったにないのだけど、これにはやられた。というか、これ、私じゃないのか。自分でしらないうちに書いた文章なんじゃないかと思った。

中学生の時の自分は学校には週に3日くらいしか行かないで、ライブに行ったり、演劇の手伝いしたり、映画に行ったり、ギャラリーや美術館(無料だから)めぐりしたり、動物園(中学生は無料だから)ぼーっとしたり、家にいたりでひきこもりなんだか不良なんだかわからない毎日を過ごしていた。
学校に友達なんてひとにぎりでほとんどの人間と話が合わなかった。変わってるだの個性的だのさんざん言われ、なんでヤンキーを好きじゃないのか、なんで髪の毛をベリーショートにしてんだとか、なんで女子どうしつるんでトイレに行かないのか、なんで学校遅刻してくるんだ、とかいちいちいちいち周りの小学校からの連中に注意された。制服のみんなは一つの集団としか思えずみながみな一様に同じ価値観で統制されて、飼いならされていく様がどうにもこうにもたまらなくイヤで吐き気がしていた。その一方でみんなと一緒にできない自分に対して常に劣等感を抱いていた。先生には協調性がない、反抗的だと言われ、テストの点は良くても評価を下げられ、同級生には常に変わり者扱い。学校に自分の居場所はなかった。

名古屋は村化した町なので特にそういうムードが強かった。
野外合宿にも行かず、プールも3年のときに一回しか入らず、体育もほとんど見学し、修学旅行は東京だったので行ったが、ことごとく学校の行事を無視した3年間を過ごしていた。しかし、自分を変えることはできなかった。演じることができなかった。それは偽善だと思っていてそれだけはしたくないというプライドもあった。また、何かを好きだという気持ちだけは今も昔もまったく変わらず何よりも強くあるので好きなものを嫌いなふりをしたり、嫌いなものを受け入れているフリがまったくできなかった。不器用すぎて笑える。子供だったんだなあ。

しかし、学校を離れた私は自由だった。好きなものを大声で好きだと言っても白い目を向けられないところがある、私だけが世界でこれが好きだと叫んでいたわけではないのだと気が付くことができた。救われた。
学校外の趣味の友達は全員、私よりもずっと年上のおねえさんばかりでいつも私にいろいろ教えてくれた。よく通っていた古着屋のおねえさん、劇団員の人、ギャラリーの人・・・いろいろいた。そこでは私はぜんぜん個性的でも変わっているとも言われバカにされることもなく(別にバカにされていたわけじゃないんだけど、個性的だといわれることは私にはバカにされているように思えた)平穏で刺激的で居心地が良かった。まだまだ自分はくだらない何も知らないおこさまなんだな、と思った。

今思うと、学校での抑圧があったおかげで私は自分に対して劣等感を抱くことができた。良かった。その劣等感を払拭するために何かここではないどこかへ、行きたいという思いが強く、強くあった。今でもそうだ。自分が自分らしくしていても誰にも迷惑をかけない(学校ではいつも迷惑をかけているという負い目があった)場所があるはずだと模索していた。ずっと模索してきた。これからも模索しつづけると思う。どこかに昔の自分と同じように誰にも理解されないんじゃないか自分は誰ともコミニケーションを取れないんじゃないかと心細いさみしい気持ちになっている人がいるのならそっと歩み寄って話し掛けていきたいな、と思う。そういう人もそんなところでグズグズしていないで自分の好きを堂々と模索していけばいいと思う。好きを模索していけば芋づる式に楽しいこと、自分にとって素敵なこと(それが最高にくだらないことだとしても)いっぱいあるんだなあと、思え、生きているのが感じるのが楽しくなる。生きているのに何も感じず、何も考えないのはもったいない。それは死んでいるのと同じ事。死んでいるのと同じ事を強いるような環境は自分から変えていかなくては誰も助けてくれることはないし、誰もあなたの存在に気がつくことはないだろう。

劣等感などなく、いつでもなんでも自分が一番正しいなんて思っている連中をみると吐き気がする。そういう人は他人を平気で傷つけて、被害者意識ばっかり強くて最悪だ。加害者意識を持て、と言いたくなる。オマエの考えている正論は人によってはまったく意味のない傷つけるだけの凶器かも知れない。無理やり自分の考えを押し通して、洗脳するな、バカ。おまえは神様なのか。そんなにエライのか。お前は何様だ。くだらん価値観を押し付けるのはやめてもらいたい。そういう無神経な神様みたいなえらい人にならなかったあなたなら、きっと大丈夫。今まで生きてきていっこも楽しいことがなかったならなおさら、これから先、楽しいことがいっぱいある可能性が高い。知らないことがあるということはまだ、気が付いてない無限の可能性を持っているということだ。ふりむいて自分の後ろのドアを開ければいい。世界は無限だ。

未来の私は過去の私の絶対的な味方だ。
昔の自分があったから、今の自分があるのなら、そんなくよくよくだらないことでめそめそしていた自分自身が今はいとおしい。未来から過去の自分へ、今、猛烈にエールを送りたい気分だ。フレーフレー自分。

自分をいままで曲げなくて良かった。曲がりそうになってもその都度、曲げなおしてきてほんとうに良かった。少なくとも自分はそう思っている。

あ、ちなみに私、変な宗教になんか入っちゃいませんよ。

って、ここまで書いておきながら話が激しく脱線していることに気が付きながら家に帰ったので、家についてソッコー削除した私だ。自分の劣等感云々の話じゃなくって、そのトンガリキッズ気取りでいては何にも他人に伝わらないので意味がない、ということに共感したはずなのだが・・・おかしいなあ。
きっとこのモヤモヤした気持、あいつならわかってくれるはずなんだ。二人で自分のトンガリキッズ根性にヤキを入れたあの新宿の夜は一生忘れないよ、俺。

何の話だ。あー文章うまくなりてぇなあ。はたして伝わるのかこの独りよがりな文章は。

・・・雨宮さんとは学校で同級生だったら二人でつるんで他の生徒とまったく話さないでいひひひと気味の悪い笑い顔を浮かべて勘違いしまくって誰にも理解されることのなくても平気な人間になってしまっただろうと思うので同級生じゃなくてほんとに良かった!と思いました。