吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

終わらない退屈を楽しもう

こないだのPIT INNだけどなんかじわじわーとおもしろかったような気がしてきた。どこでみた文章か失念してしまったのですが「退屈で退屈で退屈でしょうがない三人」というようなフレーズがあって、それは的を射た表現だと思った。同じ場所同じ時間に退屈で退屈で退屈でしょうがない3人が脈絡もなくステージにいる。その向こうには観客がいる。無関係で無神経で無意味である。それはすばらしい。拒絶した関係。それはおもしろい。最後まで出会わないで終える。けれどそれはステージに上げられてウオッチングされている。本人は気がつかない。そういう意図がない。何かに対する反骨も反旗もないし、物語も感情も理由も歴史的背景も関係もない。退屈に理由はないのだ。
どんな感情の高ぶりも何もない何もないものぐさな時間を共有するという感じは有り得ないような現実だ。殺しも盗みも天災も何も起こりえない退屈。約束された安全と平和な安心な退屈。同じ時間なのに退屈さの中で感じる時間感覚と劇的な情景で感じる時間の感覚の相違。
ああ、そうか、あの日あの時あの場所で。あの満員御礼の中で起きる理由があったのだ。あの退屈には動機があったんだ。

どうせなら72時間くらいあのステージはやっても良かったのかも知れないがそれは意味のないことかもしれない。コンセプトはわかりやすくなるかもしれないがそれは必要ではない。私たちは有り得なかった現実を想像するだけでいい。有り得なかった現実が無数に転がっているけれどそれを選ばずにそこにいる。選ばないことにも意味がある。意味があるように見えてまるで意味などない。無意味なようで意味があるけれどやっぱりそれはただの無為だ。作為はない。けれど理由はある。意味なんてあとで付ければいいじゃないか、こうやって。動機なんてあと付けでじゅうぶんだ。だってそもそもその退屈に明確な理由がないのだから。インプロじゃんか!

アルファベッツの歌詞じゃないが「終わらない退屈を楽しもう」だ。退屈は一瞬で一瞬は永遠だ。永久機関に取り込まれてステージだけが不気味に異世界に浮遊していた、違和感。
ルフレッドはそれを意図して私と杉本さんを指名したのか理解しかねるが結果的にそういった妙な構図が出来上がっていたのだから私はそれをオモシロイと感じてきた。段段と。

でも、私はいつも2人以上で演奏するときはかならずビールを飲んでいる。
かならずビールを飲んでいるので別にあの時にビールをこぼしたのは意図でもなんでもない。そこは笑うところじゃない。それはまったくおもしろくない。過失と失笑の組み合わせでしかない。それはやっぱりおもしろくない。ちっともさっぱりおもしろくない。そもそも何もおもしろいことなんて退屈の中にはないのだ。だから重苦しいほど私は退屈していたのだ。そして私はその退屈を楽しんでいたに違いない。退屈の真っ只中にいて、気がつかなかっただけで。