吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

日記と子供の頃の話と夢の中の話に共通するのは

(この文章あとでけっこう改稿するかもしないかも。なんか、微妙だな。つーか、こんな話書いても、誰も興味もてないですよ!と思う、思える、思えるけど覚書だとか言い訳して公開して後悔するのもオツなものです)

最近ちょくちょく長めの文章やら子供の頃の話やら前から書いている夢の話やらが書きたくなってきたので書いている。で、たまに訊かれるのだけど、これはフィクションなんですかノンフィクションなんですかっていう疑問。私は嘘だろうが現実に起きたことだろうが夢の中の話だろうが妄想だろうが読み手が面白ければそれはそれでその人にとっての真実ではないだろうか、と思っているがそれは読み手の側の話で私がどういう心積もりで書いているかというと、
子供の頃の話と夢の中の話というのは曖昧だから、辻褄を合わせたり、はっきりしない記憶を無理矢理つなぎ留めようとして、かなり多くの部分が<創作>されたり、読みやすくするために矛盾を修正したりされている。そのため、真の意味でのフィクションではない、という事実。
ただ、そのときに感じた<感覚>や<感情>を脚色しない。何故か。まず、書きたいなと思うときに理由はなく、ただ、その自分の中に芽生えた<感情>や<感覚>を言語化したい、という思いが強く頭をもたげるからだ。それが書きたいなあと思う理由で、それより他には今のところなにも欲求はなかったりする。私を創作へと奮起させるトリガーは<感情>と<感覚>のみだ。あとはぜんぶ<物語>。

と、いうわけで、嘘とも言えず、本当とも言えず、どっちともつかない読み物ってことで[Text](読み物)というカテゴリーに分けているのであった。まあ、割合でいったら6割が本当で4割が創作なんじゃないだろうか。それくらいの割合が私にとってはちょうどいいし、感情や感覚を伝えたいと思うのであれば、ある程度、無駄な情報を削ぎ落として際立たせたほうがいいし、そのほうが良いし、好き、だ。直感だけど。

と、いうことらしい。
まあ、さすがに日記とわざわざ書いてるのは思ってから書くまでのタイムラグがほぼ0.5秒くらいしかないので、真実といってもいいかもしれないけど。

と、いうわけで、あまり読者を意識するわけでもなく、自分の感情を客観するために書いているちょっと長めの文章に関して感想や反応があるとこれはちょっとまた別のうれしさだ。そこには<創作>というオリジナリティがはっきりと介在しているからだと思う。クリッピングしたニュースのコメントや見出し(キャッチ)が流用されそれがまた妙な妄想を呼んでいくのもおもしろいけれど、それとはまた違ったおもしろみがあるというところに気が付くのであった。

なので、メールやトラックバックなどで感想を書いてもらったり、私の話をきっかけにまた別の物語が広がっていく様子を垣間見て、ああ、インターネットっていいなあーとかわりと素直に思ったりするのであった。どうもありがとうございます!すごくすごくすごーく、うれしい。