吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

10年前の自分にオトシマエをつけたい

ちょっと今まで書いてないことを書く。
ここ数日の私。10年前の自分との決着ばかりつけている。強制的に決着をつけさせる現場に居合わせる。そもそも私がこうも10年前の自分と出会うのは去年出版された戸塚君編集のnuから端を発するように思う。
10年前の自分が影のようになって追いかけてくる。まるで曽祢まさこの七年目のかぞえ唄のようである。

あのころの無自覚さといえば確かに驚異的ではあった。

今、10年前に作ったカセットをリリースしたいというオファーがあって、こないだ虹釜さん、コミューンの鈴木ヤスさんと聴いていた。虹釜さんは当時、このサンプラーで作ったループばっかり異様に入ってるカセットをまったく覚えておらず(興味がなかったらしい)今さら聴いてびっくりしていたが。オヴァル先取りしすぎ!確かにオヴァルなんだよねー方法論は。何でこんなものを作ったのかと言われれ答えはライヒとしかいいようがなかったが。オヴァル前だし。あとテクノとかの影響かなとも。しかし、テクノにはかなりあとで気が付いた。10年前は吉祥寺のワルシャワとかあってそこでノイズを中心に聴いていた。といっても、どノイズとかではない。あのころはノイズというジャンルしかなかったのだ。
それからパリペキンができてそれで足繁く通うようになり、それがきっかけで音楽なぞはじめるわけである。その時期を少し遅れてクララ、ロスアプソンが出来る。
パリペキンというのは虹釜さんの人柄による作用が大きくて、何でもありという感じでどこまでもバカをやっても許容される温情がありすぎて潰れました!
パリペキンに一番、肉薄していたのは今思っても東風かなぁ。まあ、東風も潰れましたけどね。

人と昔話をしていていろいろなことを思い出す。

音響派なんて言い出したころ、佐々木さんはたしか、ローファイつってたよな?
みたいなこととか思い出す。ローファイ・・・懐かしっ!

そのあとも便利な言葉は生まれては消える。
エレクトロニカとかもなんだか古く聞こえる昨今。今はロックとか言った方がとおりが良さそうです。なんでもロックとか言っちゃえ。私はもう、前衛と言ってもらってかまいません。アヴァンギャルドって言い方が一番、カッコイイしハマる。

時代を何歩も先に行きすぎるとなんだかあまりに支離滅裂になりすぎて理解できないものである。

佐々木さんがこういった音楽を聴くためのインフラを整備される前。一体何が起こっていたのかということを知る人間は確かに少ないだろう。覚えている人もすごく少ない。やはり場所は地場になる。その場に吸引されていった人たちから新しいものが生まれて、批評家によってカテゴライズされ、さらには消費され、忘れ去られていく。

10年前の出来事は誰にも思い起こされず消えてなくしたいと思っている人が多いだろう。それくらい気まずいことや若気のいたりとしか思いようのないことがたくさんあったし私も起こしていた。忘れてるけど。

当時は今と違ってブログなどインターネットなどない。記録者不在の時代である。今、どうして新しいものや変なものが生まれづらいかといえばすべての人間が監視者に廻ってしまったからかもしれない。
人の目を気にしすぎているからなにもできないのだ。自意識が過剰すぎて、何か感情をもってこうしたいこうやりたいと思っても何かを表現した事による影響ばかりを気にして何もはじめられないのだ。

バカに冷たい時代だ。なぜ、未熟な者を嘲笑するのか。許容できないのか。
この世には光はないのか。

希望がないかもと希望に向かうこともなく、すべてをあきらめないでほしい。
単純に私はもっと屯田兵に出会いたいのだ。
新しい何か、新しい妙なものに出会って感動したいのだ。

そう考えると今、音楽は少し虚ろだ。斜陽感が漂って世紀末ムード。闇雲に音楽を信じれなくなっていやしませんか?
新しい何かが生まれることはあるだろうか。今までにない画期的な何かが。
音楽でしか出来得ない何かはあるはずだし、私は音楽に絶望はしたくはない。

ライブに来る人が減ったという話をよく訊く。

どうして音楽に絶望して、ライブに来る人が減ったのか。
私は原因はラップトップコンピューターによる音楽が原因ではないかと、疑っている。
ラップトップは人の介在をあっさりと断絶しているかのように感じる。観客が私がこの場所に居なくても音楽はその場で鳴り続けるに違いないと思う。音楽は演奏者だけのものだと言ったディスコミュニケーションが観客を置き去りにする。その経験をしたものの足どりは重くなる。CDでいいじゃないかということになる。
それがキモチイイ、カッコイイことであったという価値観もあるにはあったがそういったプレイを好むものはやっぱり少なかったんじゃないだろうか。

ライブでしか観ることの出来ない経験をした人は圧倒的に少なくなってきているのではあるまいか?

それがやがて沈滞し、世界は閉塞するのだろうか。
フロンティアスピリットのある若者はいずこへ?

10年前の自分と私が出会ったら、私は私を誉めるだろう。
私は私を誉めて誉めちぎっては投げ誉めちぎっては投げして誉め殺すだろう。そしてバカを増長させるよう薦めるだろう。

そういうことをレコード屋の人たちはしていたのかも知れない。
バカを発見していたのだ。そしてその発掘物を評論家がとりあげて、こねくり回しはじめる頃、最初の発見者はそのモノに興味を失っていたりして。次の何かを探している。常に次の何かを探している。

バカは無自覚だ。
バカは自分のことが何者であるか理解できない。
バカは自分を分析できない。
それがバカがバカだという所以である。
バカが自分を物語った時、バカは知恵者になり、バカはバカができなくなる。
バカは自ら自分を発見してはいけないのだ。

内田樹の言うように、どうやらコミュニケーションは本能的にキモチイイものらしい。
バカはコミュニケーションを拒む傾向がある。バカはバカなだけで戦略など練れない。ただ、バカをやるだけである。しかし、そのバカが死なないためにはバカが絶望しない程度に広め消費されなくてはいけない。バカは孤独な生き物だ。心が弱くてわりと死にやすい。

真のバカは客観視を持たない。持たない客観視を誰かが代行しなくてはバカは誰にも気づかれず孤独に死んでしまう。また、人はそのバカの偉業に気が付かないまま、心を動かすタイミングを失って、少し世界がつまらなくなるので。

世界がつまらないのはバカの不在とバカを紹介するものの怠慢と心を動かそうとしない重い腰の観客の存在だ。

キャッチャーの居ない夜の暗闇にボールを投げ続け帰ってこない日々に疲れたんだ。

早くバカを救済すべきだ。
それにはライブに行くべきだ。そしてライブではその場でしか観れないものを提供すべきだ。はっきりいってライブは一人でできるものではない。その場の作用があるわけで観客はそれを求めはじめているように思う。感情は動かされない。動かされない感情に気が付いた後はもうれつな感情の波に溺れたいと感じるに違いない。

暗闇の中から子供が出てきてボールをそっと返してくれるそういう状況が時々あればバカは少しだけ安心してまた暗闇の中にボールを投げ続ける。暗闇の中で続投できる。
帰ってきたボールがボール以外の何かだと、もっと、きっとウレシイ。ゲームに参加する人が増えれば心強い。

暗闇の中でまったく返答がなくてもボールを投げ続けられる心の強度を持ったバカももちろんいますけどね。そういう人は天才というのですよ。

4月でオフサイトは終わるのでディスコミュニケーションな音楽も一緒に終わっていく。そしてまた、ディスコミニケーションな音楽が好きな人の手にだけに残される。それはそれで良い。本来あるべきところに音楽が戻されるだけだ。ユリイカのポストノイズ特集を読んで余計に確信する。音楽はこうやって語られたらもう終わってる。ライブではない。死んでいく。アートにじゃねえんだよ。音楽は。

新しい萌芽はもう生まれている。
誰にも見つけられないで雪の下で踏まれ生まれる前に腐って死なないためにもみなさん、注意が必要です。見つける嗅覚を持って目を皿のようにしていてください。

なんで、今年から音楽はあなたのもとに歩み寄りはじめすから!あなたはそれを受け入れられる感受性を磨いておいてください。それが私との約束ですよと暗闇に向かってボール投げます。暗闇ってそれ、ブラックホールかも知れないけどねー。ガッハッハ。