吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

日本語はラップに向いてない?

neats.org外部の情報 #109〜114
とか読んでいてそーゆーろんそーがあるんだーへーなんじゃそりゃ!と思っていた。音楽っていつのまにか「型」にはまらないとできないようなものになってしまっていたんでしょうか。ああつまらない。くだらない。○○だからダメだ○○だからつまらないと決め付けるのが一番くだらない。想像力で空まで飛べばいいじゃないか。自ら世界を狭くして絶望することなんてないのに。

彼らがやっていることは、実際には、印象を語っているだけだ。彼らは平気で「資料がない」「体系的な論考が見あたらなかった」などと言うが、ここで「知らないということ自体」を責めてもいいだろう。だが僕はそれは別にいい。知らないものを知らないままで論じるという形はあると思う。だが、そのときは、自分が知らないということを自覚しているか、または、自分の主張が印象にすぎないと思っているべきである。(外部の情報 #113)

この言葉が件の「彼ら」に届くかどうかわからないし届こうが届くまいが知らないけれど、教科書が先生がTVが誰かエライ人が研究者がネットで○○がなんて責任を転嫁して自分の感情を無視してしまわないほうがわりかし生きていて楽しい。誰かなんてきっとその先にはどこにもいなくて知らないわからない興味がないあまり聴いていないのに憶測で書いたなんていうならはじめから、そうやって感想として書けばいいのに。何を目的にして書くのだろうと推測するとそこには何もないんじゃないのか。いや、もしかすると目先のアクセス数や人気や身近なモテを期待して書くのかも知れない。けれど、そんなものは夢でしかなくって実際に何の役にもたたない。ちょっといい気持ちになれるだけで、自分が理解ったことでもないことをさもわけ知り顔で自分のことのように物語って他人の褌で相撲とったって強くなれるわけでもないし、達成感もなにも感じられない。感じられないから心が動かない。動かないからつまらない。

世界がつまらないから世界のつまらなさを指摘して、いい気持ちになりたい。

そうだとしたらそれは悲しい。望みがないところに光は届かない。つまらないと感じる人の世界は多分、とてもつまらないのだろう。何も知らないものを自分の想像の範疇だけでこんなものだと決め付けれるのはもったいない。好き、嫌いの他にわからないという箱も作っておいて、保留にしておくことも大切だと思う。わからない、ということを意識するのは恥ずかしいことでもなんでもない。んじゃないのか?

それから、自分の発言なんて、間違ってると思ったら簡単にひるがえすくらいの軽快さがあったほうが長生きできます。人間は矛盾した生き物らしいですよ。どうやら。