吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

オリジナリティのない狂気

狂気には2種類あるようだ。
オリジナリティのない狂気とオリジナリティのある狂気。
何かの模倣や影響をそのままトレースしたみたいに陥る狂気というものにオリジナリティなどなく、ひどくつまらないものだ。
なぜ、オリジナリティのない狂気を発してしまうのだろうか。歴史を知らなすぎるからなのか。それともそうやってトレースしないと何もできないのだろうか。だとしたらそれは哀れだ。劣化コピーの狂気なんぞ、無視。知らんぷりされて素通りされる。一瞬にして忘れ去られる運命。そして、語ることもない。語られることもない。

やらないこと、そうしないこと、という選択。

選択をすることも、一つの方法であるはずでやらなかったこと、しなかったことに意味がないと感じるのだろうか。

そんなわけはない。

例えば観客はどうだろうか。観客と演奏者は断絶しているわけでは決してなく、観客がいるからそこには音があり音楽が生まれるわけである。その瞬間に立ち会う、そこに居ることの重要性。無関係ではない。その音楽がおもしろいのもその音楽をおもしろいと感じる心がなければ、虚ろであり、色鮮やかではない。

何かをすることで誰かに何かの<影響>を与える覚悟がなければ、表現なんてやめてしまったほうがいいだろう。残念だがきみにはその資格がなかっただけだと思うし、それに対して別に同情や哀れみを感じるのはおかしな話だ。自分の表現のオトシマエと責任くらいは取れないのならやめてしまえ。

生きていれば責任は常に追いかけてくる。逃げるな。みっともない。向き合えないなら邪魔はするな。黙れ。語るな。向き合って血を流してまでそこに立っている人に対して失礼だ。

私たちは生かされていて、ゆるい、信頼。
信頼があるから壊せない。壊すよりも死ぬよりも作ったり生きたりするほうがずっといい。ずっといいに決まっている。生きることを阻止する、殺す、覚悟があるのか。責任を取るのか。負えるのか。向けられていた愛に背いて得られたものは何だったのだろう?そうまでして手に入れたかった何かってなんだろう。そして、それは手に入ったのだろうか。空気を壊して空気を殺して窒息して自殺したかったのか。殺されたかったのだろうか。

生むことも殺すことも覚悟が必要。


まともな大人の意見が訊きたくなって、ECDIARYを読みはじめる。恋はタイミング。これが恋愛。今日からECDに恋しよう。決めた。