吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

自分で選択しないと

責任を誰かに転嫁しなくてはならなくなるわけで、私はそういうのが心底、嫌なのだなあと思った。誰かに譲ってもらうのが苦手だ。当たり前の顔をして好意を甘受できるような図々しさが欲しい。こういうくだらないことでひねくれている自分がみっともないと思うが、この性分が直らないのはどういうことだろう。この頑なさは損だと思う。

頭ではわかっているがどうしてもそうしてしまうことの一つである。

身に起きた、現象の根拠を考える。これがこうなっていくことに何らかの意味を求める。理由などないことはたくさんあるにも関わらず、理由を見つけて納得しようとする。納得できないあやふやなものが怖いのだ。自分の感情や考えに関してだけであるが、自分が自分でないかのような感覚が怖い。自らの行動には意味がある、と考える。もし、その行動の理由がくだらなかったらどうしようと怯える。くだらなくったってどうでもいい話なのに。

自分で選択しないことは楽である。楽なことがしたいわけではない。しかし、すべての決定権を自分が握っている、もしくは、握りたいと考えるのは驕りでしかないだろう。そして、その選択を相手に委ねられないというのは煎じ詰めればその相手を信用していないのではないか。相手の言うことを全て信用したいわけではない。盲信すればいいのとは違う。盲信とは違うのだ。盲信したいわけではない。盲信できるような完璧な神様などはいないわけだし。むしろ、私は居ない世界がいい。神様のいうことだけを訊いていれば良い子なんてつまらない。100%完璧な理由なんて要らない。相手だって間違える。私だって間違える。そうでないと世界はつまらないだろう。歩み寄る距離がなければ対等であるとは言えないだろう。

あなたは間違えないで。私は間違える、も間違ってる。
私は間違えないから、あなたも間違えないで、も間違っている。

それどころか息苦しい。

あなたも間違えるけど、私も間違えるけど、だけど、間違えても私はあなたを許せるし、あなたも私を許せるという関係が対等なのではないだろうか。

ルールはゆるく結んで破られてもいい。今日の都合、明日の都合、昨日の誤解に思いを馳せる。過去の失敗をなじる。もうすでに出来てしまった傷を見せられる。そして、その責任を取らされる。あなたがそういったから、あなたのいうとおりにしたのにあなたは私を傷つけた。そんなふうに思いたくないのなら、やはり、自分で選択していくしかないのではないか。選択する自由はあったほうがいい。歩み寄る距離はあるほうがいい。それは相手を信用していないからではなくって、相手だって間違えるし、私も間違えることを許して欲しいからなのかも知れない。

弱いからこそ 共に成長して行けることもあるんじゃないですか?

(「H」(6巻)桜井まちこ