吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ソクーロフのことをもう少し

「色彩を愛しなさい。そのなかから選びなさい。とにかく愛しているものと仕事をしなさい。愛している人びと、愛している対象。それを好きな色をとおして表現しなさい*1

「私はあの国の人々を頭や知識ではなく 感覚で捉えているのです」

それからご指摘のとおり、『孤独な声』では、私にとって何かを発見することよりも自分の進む道を見つけることの方がずっと重要でした。フラハティやエイゼンシュテインの映画を観た後で、一体何を発見すればよいのでしょう? 私は「自分には何も発見する必要はない、ただ先輩たちの編み出したものを映画の現場で実践すれば良いのだ」と悟りました。結果を恐れずに、心が動かされるものを形にしてゆけばよいのだと。

こちらの印象的な言葉は1996年に発行されたユリイカ臨時増刊号「ソクーロフ」のインタビュー記事からの引用である。このユリイカの臨時増刊号はほんとうに良くできていて1990年代の時代の空気も切りとっていると思った。今、読み返してみて。当時は気が付かなかった部分に反応する。死体カメラマンの釣崎清隆中沢新一戸田ツトム園子温青山真治などの名前も。1996年がどういう時代だったのかが今、読み直して見ることでもう一度、立ち現れる。

あれから10年経ったのだけど、私の中での変化はあの時のままだ。私はソクーロフの作品に20前に出会えたのは幸福だったと思う。10年前のことを考えると奇妙な気持ちになる。去年からずっと10〜15年前のことばかり思い出させられる。あの時生まれた、気持ちをもう一度、咀嚼し直すことばかりしている。

20歳になった時、私は生まれ直した、と思った。その記憶が鮮明だ。与えられ続けることから、自ら選択していくことを選んだ。そっちの方がいいと思ったのだ。そう答えを出すまでかなり苦悩した。20歳になるまでの数年は闇の中を手探りで彷徨っていた。何をしたいのかもわからなかったし、ただ、回りに置いてかれ焦燥感だけがあった。あの気持ちはなんだったのだろうか?
今、思えば必要だったと思う。
今だって慢心していると焦る気持ちはあるが、目の前にやるべきことがたくさん用意されている。しかし、この状態がいつか突然、なくなるとも限らない。多くの人に呆れられ忘れ去られる心配だってまったくゼロではない。そうならないためには日々、精進していく努力を怠ってはダメだ。自分に嘘をつかず、好いと思える何かを作っていかなくては、とプレッシャーもある。私のような人間でさえ、そう思うのだ。

私は今年、30歳になるわけだけど、これから10年先のことを考えなければならないと思う。それはとても怖いことだ。だから、今までずっと目を背けていた。自分が幸福になるために、幸福に死ぬために、私はこれから10年のためにしなければならないことはたくさんある。

そんなふうな気持ちになったのであった。

*1:若手カメラマンに向けた言葉。私はこれを読んだときに色彩の部分に<色々な>と言う言葉を反射的に代入していた。