吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

自分の目で見、自分の言葉で語り、自分が選択したものしか信じませんし信じられません

 風評や印象操作や根拠のない噂や悪意を持って貶められる言葉を私は信じません。わからないなら相手に直接、訊きます。100%信用のできる信頼できるのは自分以外存在しません。相手との関係の中でわかった情報のみで相手を判断します。ネット上の憶測、妄想は話半分に聞き流して、自分の目で見たり体験したことを信じます。私の知らないところで私がそういう人間であるなどとカテゴライズされていくのを嫌います。そういうことをする人は軽蔑します。信頼しません。もし、私の知らないところで私の知らない違った顔を相手が持っていたとしても私が知る相手が私にとってのすべてです。それ以外の情報を憶測で判断して自分に都合のいい妄想を抱くことを拒みます。責任を持って自分の言葉で発言をする人を信頼します。間違いを指摘されたら、感謝し、判断を改めることのできる大人を信頼します。知ったかぶりをして曖昧な情報を流す人は信用しません。根拠や材料、データを提示できる情報を信用します。自分がわからない場合はわからないことを明記します。わかることをわかる範囲でわかるように書きます。自分以外の相手に100%を求めませんし、求めたこともありません。私の考え、行動はすべて、自分で判断しています。誰かと同じ考えになんてなりません。好きな人の操り人形になったこともありません。洗脳されたこともありません。するつもりもありません。相手にこうしてくれと頼んだりしません。自分のことは自分でします。運や縁を大切にします。出合ってしまったのなら仕方がないです。徹底的に話し合います。対話ができる大人と同じ目線で話すのが好きです。そこに差異を求め差別する愚かな人は信用できません。すべての人がどこか欠けていてどこか歪であるから、私は対象を求めるし、出合いたいし出合っていけることを幸福だと思います。悪意を持って接する相手とは打ち解けられません。私に愛を持って時間をさいて気にかけてくれる人を大切にします。相手の好意をあたりまえのものとして受けたくないのです。人に対して優しい人を信頼します。馴れ馴れしい人を警戒します。距離感を計りながらゆっくりと友情を育むには時間が必要です。人を見下すバカバカにします。未熟な人を嘲笑する人をたしなめます。価値観の多様性を望みます。正しさよりも、愛の強度を信じます。自分を保身するために情報を操作する人を警戒します。私は許したいし、許されたい。強く美しく対象への愛のある人がいっとう好きです。そして愛すべきモノや人が世界に溢れ、世界をもっと愛することができるように。

追記>ちょっと言葉たりないと思ったのでもう少し書くと、信頼関係がなくても相手が面白いものやためになるものを好いと思うのは別。というか、そこで無名、有名、匿名、記名、犯罪者であれ、政治家であれ、なんであれその人立ち位置を考慮しないで判断したいものです。どんな悪人の作品であれ、なんとなくいけすかない相手の作品であれ、作品(その人が吐き出したもの)を評価する際に人格は関係ないとしたい。好きだったら好きだと思いたい。相手の人格が好きだから良いと判断されるよりは、その出されたものに対してのみ評価する方が好きなものに出合う確率は高くなりそうだ。どんなものに感動してどんなものに影響を受けてもいいしという考えのほうがいろいろ感動できたり考えるきっかけになるのできっかけはいっぱいあって(材料がいっぱいあって)そこから選択して判断していければいいなと思うのであった。自分がどういうふうに物事を判断してるのかをちょっと考えてみたつもりですが、これが正しいとも合理的だとも思っていないので常にルールは改変していきたいものです。んでもってこれは自分で思ってることなんで他人に同じルールをっていうのは無理だしむしろ自分で想像してる以上のツッコミがあるとうれしい。現実なんて幻想ですよ!どうせみるなら美しくって奇妙で奇天烈な夢が見たい!
追記2>ブクマでツッコミもらいましたが、目指したい人間もしくはそういう意識を持って行動すれば生きやすいかもという一つのケースであって現状、自分がこういう人間です宣言ではないです…。わかりにくくてすみません。考えの部分というのは徐々に変わっていくものです。現時点でのベストの模索は常にしますが。漠然と対人関係のことを最近、考えてますが<その場の感情><選択して決めた信念><本質的な自分の傾向>の3つの要素があってその要素の傾向が強くなったり弱くなったりするのではないかなーとまとまらない頭で考えておりましたー。