吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

自分で何でも決めるのはしんどいですよ

 しんどいけれど、それをやる、と決めるのは理想ですが、現実それを全部、引き受けるなんて神様でもありまいし無理です。ノイローゼになっちゃうヨ。責任感の強さは美徳とされがちですが、いい加減で臨機応変である時もないと、有機的な矛盾を孕んだ世界では息苦しい。バカの壁はほんとにあるから。世界に生きるなら諦めることも自分のためだ。というか同じ気持ちや同じ考えになった方がつまらん実につまらんなので鮮やかであったほうが良い。モノクロームの単色の世界は本の中にあるのだ。本の中の物語には絶対神(作者)が存在しますから。それこそ白黒はっきりした意志と意図がありますけれど、きっとインターネットなんていうのはもっと有機的でいい加減でありえなくって誰かと誰かの思考が交錯しながらどうも同一の答えにはならない。そこを同じにいたしましょうとしても、前提や共通の認識の確認は取れるが、そこからどう感じるかの部分までは同じ色にはなれません。だから、この世界は色鮮やかで立体的なのだ。世界のレイアーで重ねられているだけで、まだ、レイアーは統合されていない。できればこの世界全体の絵を見てみたい。それにはレイアーを知らなくてはならない。私はなるべく知っていきたい。

 人はそれぞれ全然違う経験を積んでそれが蓄積して今の自分に成っているわけで、すでに「在る」を否定するのは死ねと言うのと同じ事である。

 どうも、世界は拮抗している。画面の向こうの相手が、同じ世界に住んでいるとは限らない。異世界からのアクセスだって可能なくらいの実にゆるい世界なのでどうしてもわかりあえない相手がいて自分の言葉が伝わらないことだってあると思う。例えばその世界ではまだ、電気というものが発明されていなくて、蒸気が主な動力であるというのなら、その状態の世界の人に電気のことを話しても理解はしてもらえないだろう。理解できない得たいの知れない存在が在るということを許さないとけっこうつらい。そこまでの想像力はありませんでした、すみませんなんてことは生きていればけっこうあるものなので、そこで相手の存在を無視するか、相手と対峙して理解に進めることができるかで、成長するしないは変わってくる。なんでもかんでも成長しろというのもしんどい話なので、留まることも大切です。後退することもあるでしょう。そこで挫けない精神の強度が保てるのが理想ですね。

 わからない相手を許すか正すか無視するか諦めるか。

 だったら、「許す」が理想です。しかし、それは「正す」のあとにしか訪れない。相手と自分の価値観の違いを提示しあって、そこからもっとも遺恨の残らない解決策導き出さなくてはならない。相手を許すにはそれだけコストがかかるわけです。ということは一番、楽な方法は?それはあらかじめ関わらないこと。即ち、無視することです。諦めるという心境になるまでには、諦めるための材料が必要です。諦めた、ということは相手の存在を一応、認識したということ。それにさえ至らない、無視、それに至ったあとの、無視というのは自分を守るための作戦です。防御に回った結果です。

 しかし、それを私はいけない、と糾弾できるほど賢いのでしょうか?

 いえ、防衛に回ったっていいんです。ずるいと言われたっていいんです。プライドを傷つけられることが死ぬよりつらいなら、傷つけられないように逃げたっていいし、精神状態によってはいっぱいいっぱいで無理なこともあるでしょう。それは個人個人が自分自身に相談して決めるしかないでしょう。これはメンドクサイと思っても決定しなくちゃならない。誰かに決めてもらいつづけても遺恨が残りますからね。生きてる感じもしないでしょう。 

 しんどいけれど、やらなくてはならないこと。
 だけど、しんどかったから、実感に結びつくこと。
 しんどいからと逃げていると何も手に入らないということ。
 でも、すべてと戦えばつらくなって自分が死んでしまうかもしれないということ。

 守りながら攻めながら受け流しながら留まりながら、自分のレベルを知って、それぞれがそれぞれめいめいのやり方を模索しながら日常の冒険を続けるのがこの世界の流儀なのかもしれませんね。