吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ぼくのユリーカ

 新年は意味もなくやる気が出て困りますね。

 最近、めっきり人のサイトにリンクを貼らなくなってしまったので今年は意識的に貼っていこうと思う。なんで貼らなくなったのかというと誤解されることが多くなったからとブックマークを使うようになったからですがもう、むしろ敢えて今年はブックマークを無視して人をホメまくろうと思う。別に私がホメたところで何にも出ませんし、信用を補償されるわけもないというくらい無意味にオモシロイだのなんだと書いておこうと思う。そもそもはじめた頃はそれくらいのテンションがあったわけだけど、段々、人がそれに意味を読み取るようになってきたので、嫌になってきたのだった。臆病になってきたわけ。そういう姿勢のプロクが多いので飽きてきました。そつなく燃えなく萌えなくみたいな。つまんねぇよな。そういうのって。いや、これを解決する方法は簡単でここじゃない人通りの少ない場所で書けば言い話なんだけどね。何でしないんでしょう。どうせ場所を移動してもバレるということがわかっているからでした。なんで書いているのかといえば人に影響を与えるつもりで書いているわけでそういう意識がないなら私は鍵つきの日記帳に書いてます。ピンクのペンで…。だけど、ちゃんと読まない人には読まれたくないので自ずと長文化してるんですよ、このプロクは。嫌ですねー。でも、不親切になって消費しにくく要約なんてできない文章こそ、プロク栄えするんじゃないんでしょうか。そうか?少なくとも私は最近、長い文章の方をよく読んでいる。読み応えのある文章が読みたい。そして、なんかわかった気になりたい。本当は何もわからなくても…。本当ってどこにあるんですか!?真実って何!?それより楽しい夢が見たい。

 ネット上のみで人間関係を築く中で心がけるのは、「他人には善意しかない」と思い込むことからはじめてみたい。楽観的な勘違いを発動。短い文意のみで相手を判断せず、わからない部分はまず、訊く。相手が対話を求めない場合はそれをわざわざ書いて第三者の目に触れる場に発表する理由を訊く。そこではじめて明確な悪意があるのか、ないのかわかるだろう。悪意がある場合ならそれは単なる誹謗中傷なだけなので「やめて欲しい」と希望を出すしかない。まあ、ふつう希望したところでやめてくれないのでそういうときこそは流行のスルー力とかいうことになるだろうか。もしくは、弁護士に相談だ!名誉毀損で訴えろ!って、したことないけど。

 私は見つけた場合は「明確な理由を訊き、希望を出す」ことだけはするようにしている。それ以上は相手に求めないし、求めても仕方がない。個人の感じ方を否定はできないからだ。だって、自分じゃないし。他人にそこまで期待していない。期待しないと絶望しなくて楽である。感じ方まで検閲するなんてどこの独裁者ですか。どくさいスイッチ、どーん。一人ぼっちはつまらない。てんとう虫コミック15巻ですよ。Wikiは便利だなあ。
 というわけで、相手が自発的にやめてくれるのを祈るしかない。人とは所詮、ちっぽけで無力な生き物だ。それが嫌なら権力を握るしかないだろう。具体的にどういう権力かはわからないけれど。そんなものを持つよりは無力な自分を受け入れたほうが話は早そうだし、そんなふうに強制力を持ったら単なる「洗脳」でしかなくなるので、問題はまた別になるだろう。それか、どくさいスイッチを開発するしかないだろう。

 もちろん、自分のところで書かれた場合は、消す権利もあるし、消すことを批難される筋合いはない。何でも残すことが美徳とされる昨今であるが、そうして欲しいのは書いた当事者だけであって、他の人にとってはノイズでしかない。ノイズが増えると物事を正しく判断する時間がかかるので、無駄だと感じるけど、よっぽどのノイズではない限り消さないほうがいい。というか、むしろノイズのほうが面白い場合もある。なんでもそうだが、ケースバイケース。ものによる。間違いなら訂正すればいいし、自分以外を巻き込むような誤解を招くやりとりや判断できかねる内容なら消したほうが誠実だと思うし、いろいろもめなくて良い。もめるとたいてい無駄な時間を費やさなければならなくなる。限りある人生、有効に使いたい。

 時にこういう意見もある。「自分が感じたままを書きました」という場合。ここにある主語は「自分」になるわけで、他人の入り込む隙間はなくなる。それに関してとやかく他人が意見しても仕方ないだろう。感じちゃったんだから。もう、ちゃったあとなら否定しようがない。あとのまつり。ただ、不愉快は表明してもいいかも知れない。また、それくらいしかできない。しかし、ここに主語がないと混乱します。個人的な意見であるのか、相対的な意見であるのか…それによっては受け取り方が変わってきます。メーカーの意見なのか、担当者個人の意見なのか。メーカとしては「安くていい車」でも個人的には「でも、デザインが嫌い」なのかどうか。などなど。

 事実と違うことを書かれれば、違いますと否定したり、意図を説明し直すこともできる。「この車はガソリンが要りません」といえば、嘘になる。嘘でしょうと、指摘することは「親切」という。ふつうはめんどくさくてやらない。どうせ他人なんだから、はじめから自分と同じ理解力を求めたって無理なわけだし。騙されるほうが悪いと突き放すのが一番、コストがかからなくて、無難である。「だって、ガソリン要らない車なんてないじゃーん。バカじゃないの?ググれ」と、相手が間違えていて恥をかこうが損をしようが、どうでもいいと思う人は多いだろう。特に相手に興味がなかったり、自分に直接関係のないことならなおさらだ。

 自分の意見に完全に賛同できるのは自分だけだ。いや、それも怪しいときもあるけれど。本人でもなくましてや近親者でもない見知らぬ誰かが勝手に虚実ないまぜにした風評はどのみち信用されないし、よほど独創的で面白くなければ誰も興味がないだろう。オモシロくないネタは誰にとっても価値がない。
 ちなみに私が今までついた独創的な噂の一つとして「megoのメンバーはウィーン少年合唱団出のやつが2人いるらしい」というのがあるのだが、どうにも定着しなかった。一度だけ友人が「megoのメンバーにウィーン少年合唱団に居た人がいるらしいよ!」と言われたときに私は否定しなかった。川に放った鮭が大きくなって戻ってきた的なうれしさがあった。その夢を信じ続けて欲しい。信じれば夢は叶うというが、そういう問題ではない。

 さて、なぜ、この噂が広まらなかったかという理由を考えてみよう。勝手に。答えは簡単だ。「mego」が何かを知っている人が少ないからだ。しかし、「megoというのがウィーンのコンピューターを使った電子音響レーベルで、メンバーにはなぜかスキンヘッドの人が多い。例えばheckerとか」まで、わかっているとこの噂はオモシロくなる。ここには詳しくは書かない/けないが「あの人がウィーン少年合唱団に!?」という驚きを持つためには、知らなくてはならない。また、多くの人が驚くであろうネタなら、人に伝聞したくなるというもの。こうして、オモシロイネタは広まっていくからくりだ。前提とする条件が何かわからなければ伝わらないのである。

 対象を知りたいなら対象に近づこうとしない限り、そこにあるのは「自分の頭で考えた妄想の対象」でしかない。それが独創的ならオモシロイし、広まるだろうが、そうじゃない場合は一部でしか広まらないもしくは価値がなくなるだけだ。事実を言ってもつまらん場合が多い。「これはえんぴつですね」「そーですねー」なやりとりをしてもそっから先には条件反射以上の何があるのだろう。それよりも私は大友克洋の『AKIRA』が読みたいわけですよ!となんでも『AKIRA』に例えがちです。もし、『AKIRA』に設定資料集がなかったらハマれないわけですよ。エンディングのカタストロフィー!そして、訪れるカタルシス。根拠のない設定/条件ならそこまで気持ちよくはないはずだ。ぶっちゃけ設定資料集やら絵コンテ集やらメイキングビデオやらがあるからこそ、『AKIRA』なんですよ!自分にとってハマれたのは。設定によって、リアリティという説得力があるからこそ私は『AKIRA』が好きなんです。多くの人は金田が食べていたのは人工サンマなんて、知りたくもないし、知っても意味ないですが、私としてはその味まで想像したいのです。すると細部に宿った神を感じて大人になっても『AKIRA』のセリフが空で出てくるような人間になれるんですよ。って、全然、羨ましくないのは何故だろう…。

 あまりに長いのでまとめると…

 人間なんてのは対象を好きか嫌いか興味ないかだ。好きか嫌いかの理由があれば行動するし、興味がなければ行動しない。対象に向っているか自己に向っているかで違いもあるが、興味がないのに行動しても、続かない。そこには無根拠な愛というエネルギーがない場合、また、他に対価(金とか名誉とか)を得ているようなものではない限り、絶対に続かない。故に好きを仕事にしているとクオリティの高いものを作ることができる。報いのない作業は苦痛だが報いがなくても趣味は続けられるものだから。

 対象がいるなら、理解するように努める。しかし、それも自分のできる範囲で無理をしない。あまりにも前提条件が異なっている場合や判断材料がまったく噛みあわない場合、お互いが納得しない。するにしても、かなり時間や手間がかかる。そこまでする必要があるかどうかは、それぞれの価値観によって異なるだろう。
 例えるなら相手が坊主の説法の話をしていたとしよう。しかし、こっちは袈裟について話しているだけだったとする。一方は真理を求め、一方はその刺繍に目を奪われるだろう。対話とは前提条件を同じくし、言語が一致しなければはじまらないのだ。私が外国行った時くらいのボキャブラリーなんて、幼稚園児並だが難しいことを話そうとしなければ伝わらないことはない。この料理がおいしい!ということは伝えることはできる。しかし、高度な話をしたいと思ったとき、障害は訪れる。私は多分、その料理のレシピまでは聞き出せないだろうし、理解できないだろう。伝わらない時とはこういうことを言う。相手が対話を求めない場合も同じく。

 私はこれがめんどうなのと気になってしまうのでよく、理由を訊いてしまうんだけどこれが他人をムカつかせるポイントだと思う。理由なんか必要ない、動機のない殺人みたいなもののほうが実際多いし、インターネットには、なんでもかんでも意識的に文章を書いている人ばかりではないのでそういうことを考慮しないとダメだなあと、去年の反省。紙媒体になってくるとまあ、そういういわけにはイカンわけだけど、ネットというのは雑談もあれば議論もあればポエムもあれば酒場の愚痴もあれば同窓会もあればなんだってあっていいわけだし、実際あるらしい。まあ、話していて実りのあるのは圧倒的に意識的に理由を持って文章を書いている人なわけですが、そればっかりなのも息が詰まりませんか?
 問題なのはそれが可視化され、いくらでも参照でき、簡単にコピーでき、検索できてしまうことだ。だからこそ、モラルとして公然の場に私信を書くなというのはあるだろう。混乱するから。だったらメールしたほうがはるかに揉めないい。大体、ケンカでも何でもそうだが第三者の目のあるところではプライドが先行してしまい「手打ち」になることなりずらい。だからこそ、手打ちの議論を他人が読むとけっこう感動してしまうものなのだが。相手を譲り、認めてはじめて顔を向きなおす瞬間みたいなやりとり見てるとカタルシスがおこるよね。相手に対して良い印象を持っていなければいないほど。しかし、ここで勝ち負けとかプライドとかを意識せず、謙虚な姿勢を貫けばけっこう学ぶところは多いのだ。わざわざ自分のために時間を割き、問題意識を持って考えてくれる人になんて、現実にはなかなか出会えないからね。どっちが得かと言えば言わずもがなであろう。

 世の中には批評だけじゃなくって詩も必要なのさ。ユリイカ

 詩は対象を求めていないと思う。だからこそ、美しくそれが、詩なんじゃないのか?とか思っているんですがどうなんですかね。何もなくてもあるようなもんだと思うが批評は対象があるからなりたつものだ。詩を書くときには誤解されないように気をつけたい。

 自分の常識を疑えというのは世界を広げる基本だがこの世界には自分の世界で満足している人もいるわけでそこではそれが唯一の正義。その正義を他の星の世界の人が「常識じゃない」と指摘することは野暮だったりする。でも、「焼きそばには牛乳」程度の常識であれば指摘しなくても楽しめるんだけど、困るのは知りもしないことをあたかも正しいみたいな顔して近づいてくるやつだ。そういうときの根拠が曖昧な「みんな」が楯だった場合は明らかに怪しい。根拠に説得力があり、信用における情報なら信じても問題はない。情報というのは一つだけでは信じられない。発言者のパーソナリティに寄りかかるものだ。悪いけど蓄積された厚みが説得力に変わるのだ。いや、悪くないけど。流行りの「集合知」ってやつでしょうか。しかし、その「集合知」も集まる場所で答えは変わる。前提になってくる条件が必要なのはそういう時だ。だって、1000人の殺人犯に訊きました!人を殺してもいい?悪い?っていう答えと1000人の医者に訊きました!人を殺してもいい?悪い?っていう答えは一緒になりそうにないもんね。死に直面しているという理由からどちらも説得力のある答えにはなりそうだけど。

 何かを「知る」ということにはそれそれなりの時間と努力が必要なんです。その上で書いたものに説得力が生まれるわけだし、信じることができる。とか、今、読み直しているタナカカツキさんの『オッス!トン子ちゃん』『ブッチュくん』を通して学んだね。私は。いや、話それるけど、マジでオモシロイからみんな読めばいいのに。完全にマンガ史から無視されているところにこそ新しいものがあるんじゃないのかとか思い込みそうになりますよ。
 『バカドリル』もそうだけどまず、ここで徹底して行われているのは「みんなが思う当たり前」の確認なんですよね。そこを「敢えて」ズラすことで、新しい視点を入れてくる、出会わせるという。私はここにシビれます。『サルまん』でも『恋の門』でも同じようなテーマがありましたが、自称芸術家が自称クリエーターが自称芸術マンガ家が何かを伝えようとしてもそこに自分しかいなければ、響かない。私は作品の容認よりも衝撃のほうを大切にしたがる趣味があるので、惹かれちゃうわけです。なんかhttp://guideline.livedoor.biz/archives/50791276.htmlな感じのことです。言語化しないで感覚だけ説明すると。ちなみにこの、感覚で説明するというのが私の文章の特徴です。よく、読むと私の文章は<感覚>から<感覚>にリンクしてるだけで、答えを提示する気が全くありませんね。

 よく知らないのに知ったかぶる感じには警戒心を覚えておいたほうが良い。これが自分の日記とか芸術とか音楽とかポエムとかだったら害がないから私は手ばなしで「あんたの世界が好きだよ」と言い切れるんだけど、知らないジャンルで例えば病気のこととか知った顔で言われるとムカつきますよね。ってそれは私が去年、自分に向けられた言葉の一つでいまだにことあるごとに思い出してムカついているのは私の病気に対する無知からくる言葉だったんですけど、あんたそれテメー目の前で言ったらたぶん、速攻、殴る。っていうくらい瞬発的にムカついたんですけどなんなのかは書きません。自分の書いた言葉で誰かは傷つき誤解し間違った差別を生む可能性があるわけです。対象を限定すると余計に増します。対する恐怖心はもっとあったほうがいい。でもねーこれもどういう文意で書いたかなんてわかないんだよね。だから、今はムカつかない。「あんたバカだよね(笑)」なのか「あんたはバカだ(侮蔑)」なのかなんてわかんないので、私はめんどくさいのでポポロクロイス物語のピエトロを見習って全部、「好意」か「無知からくる無神経」と思い込むと、世界が自分に優しくなったように錯覚できるのでお得です。どうせなら美しい世界をみたい。また、その世界をみることに時間を割きたい。

 さて、ここまで読んでお気づきの方もいるかすでに序盤で諦めた方もいると思いますがこの文章は段々とか徐々にとかと同じ効用。言葉を連ねることで意味の強度を増す仕組みになっています。一つ一つのエピソードは全部別ですが同じ。曲は同じだが音が違う。カシオトーンのプリセットの曲でピアノだったりギターだったりオルガンだったりするようなもの。印象が違うが言ってること、構造は同じ。

 そう、実はこの文章、「詩」なのです。
 また、その一方で伝えるつもりのない手紙なのです。
 「伝えるつもりのない手紙」それが詩なのだという「批評」でもあります。
 そして、どちらの意味にもとれるということは、このサイトが「雑誌」だともいえます。
 あと、壮大なギャグともいえる。
 そうやって、複雑さは増していくのです。

 これが私の考えた簡単に消費されない/理解させてやらない方法です。

 親切なんかしてやらない。これが2007年、流行するであろうブログ道は険しいよ。