吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

アート・オブ・トイピアノ/マーガレット・レン・タンの世界

http://www.uplink.co.jp/x/log/001714.php

 スェーデンから戻ってきてすぐですがいっそのこと加速と思いユンケルを飲み仕事もしつつプレス用に招待されてたので今、これ観て来ました。

■マーガレット・レン・タン
女性ではじめてジュリアード音楽院博士号を修得。
師であるジョン・ケージの追憶コンサートで『トイピアノのための組曲』(1945年)を演奏するためにトイ・ピアノを購入。以降、プロのトイ・ピアノ奏者としても活動している。詳しくは公式サイトなどで情報を得てもらったほうが「正しい」だろう。詳細については省きます。

 私が感心したのは、現代音楽…特にケージの作品への理解力という点だった。作曲者の意図を正しく理解する、そのために必要なことはなんだろう? 現代音楽と訊けば、ケージの沈黙の曲『4分33秒』を知る人が多いと思う。『4分33秒』のコンセプトを理解せず、ただ伝統的な奏法を無視して曲芸的な音楽を行うのが現代音楽である、と認識しているのではないだろうか。そういった解釈があるのはわからなくもない。しかし、対象を知らず先入観のみで内容を決定してしまうのは愚かしい。事実、現代音楽さえもが、「古典的」であるとされ、音楽のジャンルの一つとして認識されていることは矛盾を孕んでいる。

 そもそも現在の印象のように現代音楽とは曲芸的である音楽のことではない。本来「音楽、楽器の可能性を拡張していくために生まれた音楽のこと」である。クラシック(古典)に対するカウンターとしての現代音楽という特性を考えればわかるだろう。先人たちの発見、革新的なテクニックがいかに単なる「実験的な」ものではないのだという証明をこのドキュメンタリー作品は示したものといえるだろう。ピアノの可能性を押し広げるために、「敢えて」トイ・ピアノを選択したマーガレット・タンの姿勢。そこから見えてくるものは何か-----------。

 多くの人は「トイ・ピアノ」なんて、ピアノの模造品。粗悪品。子供じみた遊び。馬鹿げた音楽。と、認識するのかも知れない。それに続く言葉はきっとこうだ---------「そんなことをしても仕方がない」。しても仕方がないことを「敢えて」貫く姿勢は何なのか。フィルムの中で彼女は「困難なことをする価値がある」と語る。それでしかできない何かを作り出すために、困難はつきものだ。演奏家美しい旋律を奏でるために最適化されていったピアノではなく、子供の練習用に作られたトイ・ピアノではさまざまなことが制限される。音階も少ないし、軽くニュアンスが出しにくい。わざわざそれを選ぶなんて馬鹿げている。今までのように素直にピアノを弾くほうが賢い選択ではないのか? 彼女はこう、引用する。

マルセル・デュシャンが言ったように粗末な道具ほど、高度な技術が必要なのです。

 優れた技法に裏打ちされた上で、その馬鹿げた遊びを真剣に全うすればそこから新たな発見と感動が生まれる。ピアノからでは得ることができなかった、新たなピアノの可能性。それを指し示すこと、それが本来の現代音楽の在り方なのだ。「たかが」と、見下す視線から生まれるものはない。新しい地平を望みたいのなら、困難に立ち向かう勇気が必要。誰も挑戦していないことなら尚更だ。それに挑戦する「価値」はある。

 それを笑うのは簡単だが、その見下す姿勢がどれだけ世界を狭めているのか…。誰かの影響を受け、自分なりの解釈を加えることで世界は無限に広がっていく。私たちは無寛容に新しい試み、姿勢を嘲笑してはならないのだ。

 というわけでー印象的だったのがフィルム内で「今の時代、聴き手は聴き手、作り手は作り手と完全に分かれてしまっている。昔なら聴き手も音楽を奏でていたのに」と??氏*1が語っていたところだった。当事者意識の薄い受け手の無許容さもさることながら、それを変えるほどの作品を作り手が生み出せていないのも原因だと思うが、作り手も受け手も相手を信じるということから対象と関わらなければ何も新しい発見はない。作り手は諦めずに何かを投げつづけていくことが今の時代は大切なんだろうなーと思ったのであった。困難なことほどオモシロイものはない。敢えて、それをやる姿勢は美しいのだ。

*1:わからん!