吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

桃ちゃんという視点とキャラクターの意味するものは

 についてhttp://d.hatena.ne.jp/Capitalizm/20070413/p1を読んでいてふむふむーなるほどーと楽しく読んだ。まなび原稿はオトナアニメに書ききっちゃったので特に書くことはないんだけど、まなび以外の個々のキャラクターについてまで言及しなかったのでちょっと書いてみることにする。

 メタレベルの召還者としての桃ちゃん、視聴者のメタファーとしての桃ちゃんという指摘なんだけど、私もだいたい同じように見ている。んで、桃ちゃん的キャラというのはわりとアニメ見ていると一定数いて、すでにキャラとして成立しているように思う。象徴として思い浮かべるのは『カードキャプターさくら』における友世ちゃんですね。すでに誰か指摘して評論文書いてたらごめん!だが私はそういうの読んだことないので(笑)無知を承知に続けさせてもらいます。

 友世ちゃんも常にさくらちゃんをビデオで録画するキャラとして登場するのはご存知だと思うので詳しい説明は避けますが、なぜ、友世ちゃんがそうしなければならないのかと言えば、視聴者と同じ視点をアニメの中に介在させることで「ここで萌え〜」とか「超絶かわいいですわ〜」と言ってもいいですよ、と教えるためだ。キャラ萌えのオタクと同じ視点を視聴者である大きいお兄ちゃんとして現れるのではなく、あくまでもさくらちゃんと同じ同級生のかわいい女の子として描くことでターゲットである視聴者が現実の自分を棚に上げてファンタジーとして楽しめるように工夫されているという親切設計なのだ。友世ちゃんの変態ぶりは筆舌尽くしがたいわけだけど、簡単に説明すると同級生の女の子に恋のような感情を抱き、コスプレさせてビデオで録画しまくっている友世というキャラ。このキャラってさくらの連載していた『なかよし』読者のちびっこには必要ない設定であろう。実際、マンガの方はその設定にページ数を割くよりはさくらちゃんの恋のほうに重点が置かれて描かれているように感じる。

 てなわけで、アニメの方では友世ちゃんというキャラをワンクッション置くことで、キャラ萌え視点を肯定する役割を果たしていると思った。ちなみに桃ちゃんも友世ちゃんも、ちょうお金持ちでいろんなオモチャを作る大会社の令嬢というところも設定は同じ。その設定を踏まえて桃というキャラが存在しているのだろう。
 『まなび』は既存の作品をうまくパッチワークしているだけだという指摘もあったが、そのとおり。それをマイナス要素として取るか取らないかの違いはある。私はパッチワークというよりは車輪の発明をしないだけで、既存の設定をうまく利用して違和を与えているのだという評価だ。
 また、いろいろとこの作品を面白いと思っている人に話を訊いてわかったんだけど、アニメにおけるお約束事がすでに血肉のようになっているカンジだった。アニメ文法を理解した層が深夜アニメを見る人たちと割り切ると、もう知っているのでいちいち説明されるのがウザい!と思っているようだった。いちいち説明が入ると野暮と思うらしい。特にネットで検索すればわかる情報に関してはばっさり切って欲しい。桃ちゃんのような金持ちでカメラ持ってる子というキャラはこういう子で…と、すぐに理解されるまでに到っている。以前、読んだ庵野秀明監督の宮崎駿監督について語っている言葉で印象的だったのが「宮崎さんは誰が見てもスゴイ!とい思える王蟲の絵を描いても、ナウシカにわざわざ「すごい…王蟲…」と状況を説明するため言葉を付け加える」という話が印象的で、私の友人のアニメ好きのマンガ家の子にその話をしたら「そんなの見てわかれよ!って思うよー」と言っていたのがおお、これが新人類かーと思ったんだけど、彼はまんまと『まなび』好きなんですね〜。まなびの状況説明のなさがスタイリッシュに感じる/不親切に見えるの違いはココかな〜と思ってる。だから、桃ちゃんのキャラは視聴者=キャラ萌えのオタクと同じ視点という事実をふまえて、さらに『まなび』では、他とは違う部分を見せてるのですよ。それは何かといえば、作り手の視点。こうしたほうが人生面白いじゃん!っていう演出をするのが桃の役割。そして、その裏舞台を見せちゃうという。視聴者が落胆しないように良い方向へ物語を持っていくのが彼女の仕事で、それをまた視聴者が見ることであたかも作品に参加しているように「錯覚」(いい意味でね)させることに成功していると思う。Capitalizmさんも書いてるけど、

ももの映像が生徒たちに影響を与えるってことは、視聴者自身が物語に影響力を行使できたような錯覚を与えやすい。これが、視聴者にいままでこのアニメを見てきたことが全面肯定されたような感覚を与え、物語に内在的なカタルシスとは別種のカタルシスを生み出しているんじゃないかなって気がする。

 これは私とまったく同意見。あと、リサーチした結果も同じような意見があったので、その意図があったとしたらうまく機能した例だと思いますよ『まなび』。もっと言うと、こうしたカタルシスを生み出すことによって、視聴者と共犯関係を持っちゃうっていうことは、無関係でいられなくなる。熱狂的に好きにならせちゃうことで、私のようにDVDまで買う良質なファンを生み出す結果になるのだ!ドーン!どうでもいいがこれに入ってるアプリの3Dまなび怖えええ!

 そう、『まなび』ってのはやたらと視聴者を参加させる仕組みを作ってるんですよ。ココがキモチ悪いって思う人と、「俺も祭りに参加するぜ!」と思う人と評価を二分にしている。何故、語りたがるかといえば、答えは簡単。語りやすいように作ってあるからなんですよね。学美が「全然オッケー!」と、相手を肯定するってのはイコール、視聴者に「好きに解釈して!何言われても怒らないよ!」というポーズなわけですよ。と、私は思ったので「敢えて」ノラせてもらう方向でこの作品と関わることにしたんですけど、これでufotableのスタッフに「ちげーよ!」と言われたら…アガアガアガではありますが、制作者が意図せよ意図しないにせよ、そういう風に取れるように作ったんだから仕方あるまい。解釈は視聴者の自由!当たり前なんですけど、最近は作品の読み方はたった一つしかない!消費の仕方は一つだけ!みたいな風潮があってそれが私は苦手であります。受け手をバカにしてるみたいで嫌なんですよ。もっと受け手は想像力働かしていいと思う。あぐらをかいて観るばっかりだと脳が腐るよ。アニメ体力が落ちるよ。というわけです。

 まあ、そんなわけで、桃ちゃんというキャラは何かを一つ考えるだけでこれだけ楽しめる『まなび』は、オモシロイ!と言い切れます。