吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

カルチャー日記

 一段落ついたのでいろいろ観たり読んだり聴いたりするぞー!呑むぞー!遊ぶぞー!遊んでもいいんだ!ううう。と、大いに盛り上がっている。何かを作っているときはどうしても、それを最優先しなくてはならないから楽しむことが後ろめたくなるのですが、今はまったく締め切りナシ!スーパーフリー!なわけですよ。ああ久しぶりの感覚。なのでどっぷり必要以上に感動している過敏症。いちいちテンション上がったり下がったりで疲れるが、その後に響かないので過剰になっている。というわけで最近、観たものを聴いたものー。

2007年7月13日(金) イルリメ杯争奪!「ゴーゴー・サーキット」@代官山UNIT

 何故か電車を間違えて乗ってしまい途中からだったのが残念!だったんだけど招待いただいて行って来た!ので大量に物販を購入!しつつ楽しんだ!音楽って楽しい!はじめてうっかり来ても知ってても知らなくても出会える客の前で道化になってちゃんと俺、芸人だ!という意思表明!ライブパフォーマンス最高!カッコイイ!隙まったくなく楽しませるぞ楽しめるぞ感のワクワクはこんなに楽しんでいいのかしら?客が一瞬も濁らず入れる世界!ニューアルバムもイルリメ初心者にこそオススメできる娯楽の局地でああ、こっちに行ったのか!イキイキしてる!素敵です!私が中学生だったら絶対、追っかけしてるだろうな…など、思った。ただ楽しむだけに楽しんでもいい音楽最高!

2007年7月14(土) 「instrumentalize」@恵比寿giftlab
 佐々木敦氏のブログにレビューがあるのでそれ(日誌 : How It Is)参考のこと。

 お店の雰囲気がすごく良かった!アートと音楽と洋服と隣にも洋服。斜め向かいがonsa!という好スポット。私は自分の声のパフォーマンスは深化はするが拡散はしないでブレさせる気は毛頭ない。しかし、期待して期待を期待どおりだと安心させるために何かをやり続けるのは前衛精神に反する!というわけで、なるべく自分のことを期待してくれない場所でやりたいという思いがある。全然、知らないはじめてみる人が多いところでやるようにしている。いつもの安心知っている場所だと途端に不安になる。常に自閉せず、慢心せず、空気と流れは心地よく、ドアは開けておきたい。居心地が良くなってはいけない。すぐに逃げ出したい。〇〇の人。なんていうわかりやすい印なんて用意してあげたくないのであった。意地悪だ。

 ライブやる前にも少し話したが自分のヴォイスパフォーマンスのコンセプトをクリアにしたのはWrKの影響があったからだなーと思い出す。観客と演奏者がフラットな場所にある。そして、「演奏」を見せるのではなく「現象」を観せる、聴かせるという姿勢の中には感情の入る余地はない。そのためにはギャラリーという「場」が必要であり、ライブハウスではその姿勢を徹底できなかった。PAという存在がどれだけ厭わしいものだったのか!と、ノルマ制のシステムに疑問。そうじゃないものを、と模索していた90年代前半。まあ、そんな話はユリイカでしたっけ。でも、ちゃんと書いておかないとダメだな〜と思ったのでそのうちまとめようと思う今日この頃。

 極北でありハードコアなわけであるが佐藤さんも全然、人のこと人間として扱ってくれないのでいいよね。本気でこの曲はツライのですよ。逃げ場なし!今年の頭に録ったときは喉が枯れたよ。マジで。そして、10年経って自分が昔よりもつらい方向に声を酷使し続けているのだと理解。最後は断末魔で死ぬな。血を吐いて倒れるまでやるんだろう。それでも人は人以上のステージに行けないが目指す姿勢は見せつけておきたいものだ。恐いことに音切れる=呼吸切れるタイミングはほぼ同時なのでわかるとおり「必死にやる」と同じになるのだ。

 佐々木さんとか嵐君とかと談笑。真面目なものより面白いものがみたい!こうしろと言われるとできない!などが極めつける。嵐君とかほんとうに「何か作ることしかできない」人間は、この世にいるのだ。またそういう人は凡人が気にならないところを気にして生きている。それは大事だ。

 人の当たり前ができないので、人が驚くわけだけど、そういう人は当たり前以外のことをするためにいるわけだから出来ないことを非難してもしょうがないから優しくしようぜっつて。大体、劣等感は散々持ってそこにいるわけだから。私も、こうしろとか時間守れとかまじめなことを先に言われるとどうしても破ってしまう最低の人間だ。そのたびに自己嫌悪に陥るが最近はもう無理だし「そうする理由がわからないからできない」自分に気が付き、納得していないから、できない自分がそこにいる。そこで人に合わせてチグハグ疲れ、ストレスをためて不自由になっていくのはもうたくさんだ。
 顕著なのが書類などで「ここに名前」「ここに住所」「ここに電話番号」など、書かれている場所に手書きで何か書くときに確実に書き間違える。自分の名前さえも間違える。教科書に書く名前さえ間違える。そういう人間の間抜けを「ちゃんとしてないから」と片付けられ自己管理ができないという判断がこの世にはまかり通っており弱者に厳しいわけなんだけど、ほんとうにできないで30年生きてるのでちゃんとしようがどうしようが無理なんである。変わりに決まってない場所なら幾らでも描ける。ふつうにしようとすると確実に間違うという人間なのだからこういうことをやっているのだ。仕方ないだろう。ダメな私を許して愛せなど強要できるほど図々しくはないが、私ができないことをやれる人は尊敬するし、その人ができないことを私がしているだけなのだから、嫉妬なんかしないでくれよとか思ったりする。劣等感があるからできるのだ。それさえも、よくないことのように思い込んでいた頃を考えるとバカらしい話なので、せめて自分は誰かに優しくしたいと思う。何の話だ。

2007年7月16日(月・祝) ポツドール「人間♥失格」@三鷹文化センター

 周りの人間に「観たほうがいい」と言われ続けたポツドール。佐々木さんに会った時にまたすすめられこれは縁だ今行くしかないと決意し当日3600円也支払って観た。思わず金を払ったことを明記したくなるのはお金を払ったことそれさえも理不尽、不愉快が込みな演劇だからだった。私は現在の演劇に関して極めてうとく一番、観ていたのは小劇場ブームの90年代前半頃。そのころは「笑い」は劇の必須で、それに対する抵抗から観なくなっていく。だって笑いたいならお笑い観ればいいじゃん。ドラマみたいな劇ならドラマを観ればいいじゃんというわけで、劇が劇として劇でしかできないことをしているなら観たいがそれ以外には興味がない。という態度であった。しかし、近年、オモシロイ、劇団が増えたということは知っていたが、ちらちら観ながらも「うーんもっとできる、んじゃないの?中途半端」と不満もあった。それで、知らないなりにも劇が劇場という場での体験として必要なのはなんだろうと考えた時に映画にもドラマにもない良さを考えるとやっぱり、「定点」の魅力ではないかと思っていた。ズームイン、ズームアウトしない、ここ観て!と、できない不自由さを活かしてあればいいのに、と。セットが1しか用意できず話に無理が生まれたり、時間の表現がうまくできておらず、わかりにくい演劇も「もったいないなあ」と思って観ていた。誤魔化しに行くのではなく、利用する方向で演出できないのだろうか?という不満。無理や誤魔化しに気がつくとシラケてしまうからだ。
 「人間♥失格」の演出で、そういう「劇にのめり込めないでちょっと待った」と、シラケる自分は居なかった。それだけ、丹念に無理なく、状況整理がされており、演出が丁寧でわかりやすく工夫されていたのがわかった。違和感がない。部屋の斜陽とテレビで時間の経過を表現していた。だから、最後の「ありえたかもしれないもう一つの可能性」がよく効いていた。暗闇がいやらしくなく。

 太宰治の「人間失格」を読みきった自分と、読みきらないで途中まで読んだ自分のパラレルワールドなんだと私は観たんだけど(妄想かもしれないけど)、そこを表現するために演出されているのだとしたらよく出来ていると思った。

 良くできていると感心はするけど、私はこの劇が嫌いだ。何故か。ポツドールの話は聞いていたし、私が想像した以上のことが起こらなかったからだ。ネタバレになるけど、ありえたかも知れないもう一つの可能性というのは「選択した暴力の世界」もしくは「自分で世界を変えた世界」である。一方の現実として、提示されるのは「選択しなかったことで大きな変化はなかったが、うだつのあがらない僕の日常/でも、最後に救いが?」もしくは「世界を変えなかったけれど自分の中で世界が変わった」である。私はこの「選択した暴力の世界」がなかったら、けっこう感動してしまったと思う。あそこで「選択した暴力の世界」が現われるのは、ポツドールという劇団がポツドールらしい演劇をするために必要なだけなんじゃないのかな?と思ってしまった。確かに、不愉快と最悪とキモチワルサを持ってきてくれて、この劇を観ている人を安全な場所から引き剥がすために「選択した暴力の世界」…もう、はっきり書くと強姦、輪姦、暴力シーンだが…は必要だったのだろう。サービスだろう、これは。二重の意味で吐き気がするのが、その最後を見るまでの途中、観客から漏れた「笑い声」であった。これは自分とは無関係な「演劇」ですよと、線をひいて最後のシーンでも「やっぱりポツドール!」と安心するようなら、必要ないんじゃないかな。でも、私もそうだし、他の客もそうだけど、涙目になりながら顔を青くして劇場を去るとき果たして自分は想像していたポツドールらしい演劇を体験できたんだけど、こんなものは要らないと思ったのだ。私が高校生くらいなら、きっと「やっぱりポツドール!」と安心できるのだけど、大人になるといろいろ考え込んでしまう。いくら、これが劇といっても、体験している、見ていることは同じなのだ。そこで、自分が何にもできない部外者であるという状況に追い込まれていてしまった、怒りはどこにぶつければいいのか? と考え込んでしまう。そして、この演技をした役者達の精神に何らかの変化が生まれなかったと言い切れるだろうか? リアルに作りこみすぎた虚構の世界。でも、やっていることはほぼ疑似体験だ。これを毎日、練習して、舞台で発表している精神とはどんなものなのか。そこが、オソロシイ。私は役者のことを考えて、ドラマを感じてしまう。あの演技をしたときに、はじめは嫌だと思ったのか、それとも自分が体験した過去を模倣したのか、それとも最初は嫌だったのに段々、麻痺してきたのか。演じていてほんとうにチンコが勃ってしまったのか。そこには演じているから、という安全はないのだ。かっこつける余裕も見られたい自分もない。が、もし、それも超越してしまって、演じていられるのだというのならそれは、すごいと降参するしかない。
 落日だったから、遠慮せず容赦しなかったのか、役者は明らかに力の限り男を殴り、女をたたいていたように見えたし、セットの襖は暴力で外れてしまった。ありえなかった世界に破綻が、影響が、あった痕跡が見え、ドキリとしたのだ。演技だといっても暴力はあったのだ。同じだろう。その切り替えを、役者はどこでするのだろう。どう折り合いをつけるのか。それとももっと甘い快楽のように演じる自分に陶酔できてしまっているのか。どちらにしても、不愉快だ。演じている自分だから傷つかないと思ったら大間違いで、多分、その体験はその人の精神に何らかの形で残るだろうなあ。これを読んだ人は私がナイーブすぎると思うかも知れないけど、私はナイーブでいいと思ってる。怖いものは観たくはない。暴力は伝染する。舞城王太郎じゃないけど、一理ある。そう思ってる。だから、こそ、意識していたい。だから、こそ、知りたくない、体験したくないものがある。そういう種類の、ものなのだ。あなたは、それを意識して選んだのか?

 私にはポツドールの芝居で暴力部分を観るのはコロシアムで戦わせ、その死闘をにこやかに観ている悪趣味にしか思えない。そこに芸術性も文学もないそこがポツドールでいいと言い切っている。私には今、それが必要ではない。

 だから、未来のポツドールに私は期待したい。「やっぱりポツドール!」なんていう劇じゃなくって、「これがポツドール?」と思わせるような劇が観たい。そういうものを作れる劇団だと勝手に期待してしまう。そろそろポツドールらしさに安穏としていることに飽きているんじゃないのかな?と観てて思いました。正しくないけれどオモシロイ。けれど、私はソレが大嫌いです。